qwertyローマ字がデファクトスタンダードである理由は、
「qwertyローマ字で日常で困ることがない」
という、ごく普通の感覚だと思う。
「多少不便とか不合理があるのは認めるけど、
自分としては日常で困らない」
が、それを固定する理由だと思う。
そんな日常とは、どの程度だろう?
僕は一日2000字ぐらいなんじゃないかと思う。
多くても5000字ぐらいかな。
僕はこのブログが日常だけど、
一記事あたり2000字くらいなので、
2000から5000くらいが日常書く字だろうか。
ここくらいまでなら、
qwertyローマ字でも困らないと思う。
なんならこのブログは、
一日分ぜんぶフリックで書くことすらある。
一般的なビジネス業務っても、
一日5000字行かないんじゃないかなあ。
それでも沢山メールする営業さんなどは、
とてもqwertyが速い人がいて、
時々びっくりするくらい速い人をカフェで見かける。
でも速いことと沢山書くことは必ずしも一致しない。
だからその人が一日1万字書くのか、
2000字なのかは分からない。
長文を仕事にする人、
ライター業、小説家、脚本家、
法律関係、研究者などは、
一日何千字打つのだろうか?
繁忙期と閑散期があると思う。
書くときは2万字、書かないときは0、
みたいなこともあると思われる。
qwertyローマ字は、
深い考えをガッツリ書くのに、
向いてないと僕は思う。
思考と深いところでリンクしていない。
手先、口先から出た言葉で、上滑りしていると思う。
それは、「操作に手数がいるから」
だと僕は考えている。
手数というのは、打鍵数や、左右上下に散った導線、
BSやエンターやカーソルやESCの遠さ、
漢字変換の手間、
などを含む。
そのせいで、深い思考とのリンクを邪魔していると思う。
つまり僕は、qwertyローマ字を無意識化できなかった。
僕は今でも本気の原稿は手書きで、
ペン一本だと手数が最小だからだ。
消しゴムもフリクションも使わない。
ごにゃごにゃと消すだけ。
それはペン一本に、手数をまとめるためだ。
この思考の深い部分とのリンクに、
qwertyローマ字は届かない。
脳の別のところを割かないと使えない。
日常で使うのにqwertyローマ字は困らないという人は、
日常レベルの思考や発言だからではないか、
と僕は考える。
もっと深いことを考えるときには、
qwertyローマ字とデフォルトの入力方式は、煩雑すぎる。
深いこと、というのは文字数で1万字くらいのまとまりだと思うが、
文字というのはいくらでも水増しできるので、
単純文字数では考えず、
「よく練られた文章」ということで考えたい。
よく練られた文章2000字は、
バカみたいな1万字の何倍も労力がかかるしね。
つまり、「qwertyローマ字で困らない日常」
なんて5000字程度の、
たいして頭を使わない、
口から出まかせレベルの思考だ、
と言ってもいいくらいだ。
それしか文字を書かない人は、
qwertyローマ字で困らないと思う。
僕はそれ以上のことをやる時に、
qwertyローマ字では人生を考え直すほど困難を覚えた。
一日6000字が限界だったな。それもコピー打鍵で。
ペンなら1万字書くことが出来ても、
PCオンリーでは2000字くらいが限界だった。
デファクトスタンダードは、
メールやツイートするレベルの日常までしか保証しない。
それ以上のことをやる設計になっていない。
僕は沢山書きたいし、もっと深いところに行きたい。
薙刀式でようやく、
ブログを書くときや、
練った文章のコピー打鍵なら、1万字くらい苦もなくできるようになった。
qwertyローマ字だったら、
このブログの毎日の生産量はないと思うし、
小説をコツコツ業務の合間に書くことも出来ないと思う。
つまり、僕の日常は、qwertyローマ字では困る。
デファクトスタンダードは、
困らない人には困らないだろう。
困る人は困るということだ。
身障者用トイレを作ることと同じだ。
デファクトスタンダード弱者に、
配慮をしてくれ。
トイレと違って、税金の投入は要求しないんだぜ。
あなたの日常は、他の人には非日常かも知れない。
だから、「私は困らない」には意味がなくて、
「困ってる人がいることに対してどう考えるか」
だと思う。
2020年02月01日
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