僕が短編をたくさん書けというのは、
色んな意味がある。
今回は、実は長編は短編の集まりなのだ、
という視点から。
もちろん、
短編集と長編は違う。
短編集はバラバラでいいし、
むしろバラバラのバラエティーがあるべきだ。
あらゆる方向のパターンがあり、
さまざまなテイストがあるべきだ。
実は、長編も同様だ。
「一本の作品」と考えると、
ひとつのテイストやひとつの方向性で、
まとまっているべきだとつい考えてしまわないか。
そうではない。
それだったら15分くらいで飽きてしまう。
「ああ大体わかった」ってなるからね。
長編こそ、バラエティーに富むべきだ。
極論なのは、ワンシチュエーションもので考えるとわかる。
「ずっと同じじゃつまらないから、
いかにしてテイストを変えながら進行するか?」
に気を配るはずだ。
謎を解明する時間帯、
対立がある時間帯、
和解が中心の時間帯、
どんでん返しの時間帯、
恐怖や締め切りに追われる時間帯など、
バラエティーに富む感情をつくるだろう。
それと同じだ。
長編はつまり短編集だ。
さまざまなバラエティーで、
色んな色をつくるべきだ。
ただしそれが、
文脈という一本の線で繋がっているだけのこと。
こういう文脈の短編で、
こういうテイストでバラエティーがあり、
こう終わるので、
次の短編ではこれを受けたこういう文脈での話、
というように、
巧みに短編同士が直結するべきである。
短編集でもゆるくリンクする作品がある。
長編は直結だ。
これの結果こうなり、
必然的に次にこうなる(こうする)、
というダイレクトに展開がつながる。
繋がっていながら、
バラエティーがあり、
それぞれが短編として完成している、
それが長編のあるべき形である。
「起承転結の中にそれぞれ起承転結があり、
その中にまた起承転結が…」
などと説明されることがよくあるが、
それだと「起の起の起と、起の起の承は何が違うの?」
とよくわからなくなってしまい、
実用的な教えではないと考える。
なので、
「短編を書き、それが直結して次の短編になり、
繋がって大きな何かを成す」
と考えるとわかりやすくなると思う。
もちろん、短編集と違い、
ひとつの大きな事件に関するなにかで、
それが起こるのが第一個めの短編で、
解決し終えたのがラストピースで、
登場する人物は全員共通なわけだね。
こう考えると、
「一本を書く」という行為は、
「分割された短編の構成を考える」
という更に細かい視野で考えることが可能になる。
つまり、
「面白くないパート」が出てきたら、
そのパートが、
短編として面白いかどうかをチェックしよう。
ただの説明が続いているだけで、
短編ムービーとしての面白さを持っていないのでは?
沢山短編を書いてきた習作は、
ここで生きる。
「この面白くないパートを、短編にすればいいのだ」
と思おう。
とすれば、
焦点や目的が発生し、
それに感情移入や興味があり、
行動によってそれをどうにかして、
ゆるい、または激しい感情を伴い、
結果が出たり、
いくつかのターニングポイントを経て、
最終的にそれがなんだったのかの、
意味が確定する、
としなければならないことに気づくはずだ。
そしてそれ全体が、他と比べてバラエティーをつける、
ということにも配慮できると思う。
勿論そこで完結するのではなく、
次へどういう強力なヒキを残すかも考えないといけない。
ただの短編じゃないからね。
長編は、短編集のように。
その短編集がものすごく繋がっているだけ。
そう考えると、
筆のふるいようもあるだろう。
2020年02月06日
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