2020年02月06日

長編は、ずっと続く短編の集合

僕が短編をたくさん書けというのは、
色んな意味がある。
今回は、実は長編は短編の集まりなのだ、
という視点から。


もちろん、
短編集と長編は違う。
短編集はバラバラでいいし、
むしろバラバラのバラエティーがあるべきだ。

あらゆる方向のパターンがあり、
さまざまなテイストがあるべきだ。


実は、長編も同様だ。

「一本の作品」と考えると、
ひとつのテイストやひとつの方向性で、
まとまっているべきだとつい考えてしまわないか。

そうではない。

それだったら15分くらいで飽きてしまう。
「ああ大体わかった」ってなるからね。


長編こそ、バラエティーに富むべきだ。
極論なのは、ワンシチュエーションもので考えるとわかる。
「ずっと同じじゃつまらないから、
いかにしてテイストを変えながら進行するか?」
に気を配るはずだ。
謎を解明する時間帯、
対立がある時間帯、
和解が中心の時間帯、
どんでん返しの時間帯、
恐怖や締め切りに追われる時間帯など、
バラエティーに富む感情をつくるだろう。

それと同じだ。

長編はつまり短編集だ。
さまざまなバラエティーで、
色んな色をつくるべきだ。

ただしそれが、
文脈という一本の線で繋がっているだけのこと。

こういう文脈の短編で、
こういうテイストでバラエティーがあり、
こう終わるので、
次の短編ではこれを受けたこういう文脈での話、
というように、
巧みに短編同士が直結するべきである。

短編集でもゆるくリンクする作品がある。
長編は直結だ。

これの結果こうなり、
必然的に次にこうなる(こうする)、
というダイレクトに展開がつながる。

繋がっていながら、
バラエティーがあり、
それぞれが短編として完成している、
それが長編のあるべき形である。


「起承転結の中にそれぞれ起承転結があり、
その中にまた起承転結が…」
などと説明されることがよくあるが、
それだと「起の起の起と、起の起の承は何が違うの?」
とよくわからなくなってしまい、
実用的な教えではないと考える。

なので、
「短編を書き、それが直結して次の短編になり、
繋がって大きな何かを成す」
と考えるとわかりやすくなると思う。

もちろん、短編集と違い、
ひとつの大きな事件に関するなにかで、
それが起こるのが第一個めの短編で、
解決し終えたのがラストピースで、
登場する人物は全員共通なわけだね。

こう考えると、
「一本を書く」という行為は、
「分割された短編の構成を考える」
という更に細かい視野で考えることが可能になる。

つまり、
「面白くないパート」が出てきたら、
そのパートが、
短編として面白いかどうかをチェックしよう。


ただの説明が続いているだけで、
短編ムービーとしての面白さを持っていないのでは?


沢山短編を書いてきた習作は、
ここで生きる。

「この面白くないパートを、短編にすればいいのだ」
と思おう。

とすれば、
焦点や目的が発生し、
それに感情移入や興味があり、
行動によってそれをどうにかして、
ゆるい、または激しい感情を伴い、
結果が出たり、
いくつかのターニングポイントを経て、
最終的にそれがなんだったのかの、
意味が確定する、
としなければならないことに気づくはずだ。

そしてそれ全体が、他と比べてバラエティーをつける、
ということにも配慮できると思う。

勿論そこで完結するのではなく、
次へどういう強力なヒキを残すかも考えないといけない。
ただの短編じゃないからね。



長編は、短編集のように。
その短編集がものすごく繋がっているだけ。

そう考えると、
筆のふるいようもあるだろう。
posted by おおおかとしひこ at 01:37| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。