以前の記事の続き。
お前長編は短編の集合言うたやないか、
と前言を翻そう。
正確にいうと、短編の接続だけでは、
長編の面白さには届かないということだ。
どういうことかというと、
短編はその短編内で完結してしまうので、
長編なりの面白さに到達するまでに終わってしまう、
という特徴があるということ。
たしかに長編は短編の集合体だが、
ひとつに練り上げられた話でもある。
つまり、短編以上の長さで、
伏線の回収があったり、
いくつもの短編の長さをかけて成功する作戦とか、
失敗するとか、
そういう「これまでうねってきた長い何か」
という面白さがあるということだ。
これは短編を繋げただけでは出来ない。
じゃあどうすればいいのだろう。
短編を繋げた段階で、
そういうことがあるかどうかを考えると良いと思う。
逆にいうと、
短編をただ繋げたようなものでは、
一回一回終わってしまっていて、
長い間静かにうねるような、
長編ならではの面白さが出来にくいということだ。
そうだと気付こう。
気づいたら、接続の仕方を考え直そう。
うねるようなストーリーにまとめ上げていけばよい。
どうやるかはそのストーリー次第だが、
僕は勝手に自己組織化があると考えている。
単純な短編の集合体ではなく、
何本もの短編の長さを消費してうねるようになる、
積み重ねのようなものがあるべきだ、
と思ったら、
勝手にストーリーの方から動き出して、
そのように自己組織化してくれる、
と僕は信じている。
逆にそれがないと、
手で一個一個確認しながらやっていかないといけないことになり、
それは相当手間と試行錯誤が必要になるからで、
そんなあてもんのやり方だと、
いつまで経っても正解が引けないと思う。
そうではなくて、
ストーリー自体がその形に勝手になった、
としか作者が言えないような瞬間を、
味わいなさい、
ということか。
まるで魔法のようなものだが、
十分客観的になっていれば、
これは起こると思う。
「ちょっと単発なものばかりだな、
もうちょっと長い時間かけて、
うねるようになっている流れにならないかな」
と感じて、
そのように構成ごと変えて行けるようでなければ、
航海のセンスがない船長に等しい。
もちろん、何バージョンか構成からやり直したり、
設定を変えてみたりするような試行錯誤は、
何度か必要になってくる。
しかしストーリーがそう要求した、
としか言いようのない形に、
最終的には勝手になるものだと、僕は考えている。
問題は、問題意識が、あるかないかだと思う。
なければ一生気づかないことで終わりだが、
あれば、
「ここはいまいちだな、短編だけで終わってしまっている」
と、気づくことが出来るはずだ。
「じゃあ、ここからここまで、
長いうねりになるように構成を組み直そう」
ということに気付けるはずで、
そうすれば、
短編の集合体ではできない、
長編ならではの長い長いスパンでの展開へと、
組み直せるはずだ。
(もちろん実力が足りなければ、苦労するだろう)
こういうことに気付いたり、
それをこうするべきである、
と思う訓練は、
他人の映画を見ることで養われると思う。
自分の鏡を見ることは時に困難だが、
他人のやっていることなら、
比較的分かってしまうからである。
他人のことは分る。自分のことはなかなか分からない。それが人間だ。
ということで、
自分の欠点にはなかなか気づけないが、
気づけるように、冷静であることだ。
これに関しては容易で、
短編の集合体で終わっていないか、
複数長さをまたいで何かをやっているか、
ということが唯一のチェックポイントになってくると思う。
長いうねり。
これは短編の集合体にはない、
長編ならではの流れの面白さだ。
ああ、やっと待ち望んだ瞬間が来た、
そういうゾクゾクは長編ならではだろう。
逆にいうと、短編は、早漏しかできない。
ただの短編の集合体にならないような、
長編ならではのものにしていこう。
問題を整理して、焦点を整理して、
目的を整理して、関門を整理して、
乗り越えるべき障壁を整理して、
情報を与える順番を整理していけば、
おのずと正解に辿り着く。
こういう時に三幕構成理論は役に立たない。
スケールの差が違う。
三つのシークエンスで、とか、
二幕前半全体で、とかのスケールで考えるときは、
もっと別の理論が必要だ。
2020年02月09日
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