2020年02月09日

短編の集合では、長編にならない

以前の記事の続き。
お前長編は短編の集合言うたやないか、
と前言を翻そう。

正確にいうと、短編の接続だけでは、
長編の面白さには届かないということだ。


どういうことかというと、
短編はその短編内で完結してしまうので、
長編なりの面白さに到達するまでに終わってしまう、
という特徴があるということ。

たしかに長編は短編の集合体だが、
ひとつに練り上げられた話でもある。

つまり、短編以上の長さで、
伏線の回収があったり、
いくつもの短編の長さをかけて成功する作戦とか、
失敗するとか、
そういう「これまでうねってきた長い何か」
という面白さがあるということだ。
これは短編を繋げただけでは出来ない。

じゃあどうすればいいのだろう。
短編を繋げた段階で、
そういうことがあるかどうかを考えると良いと思う。

逆にいうと、
短編をただ繋げたようなものでは、
一回一回終わってしまっていて、
長い間静かにうねるような、
長編ならではの面白さが出来にくいということだ。

そうだと気付こう。
気づいたら、接続の仕方を考え直そう。
うねるようなストーリーにまとめ上げていけばよい。

どうやるかはそのストーリー次第だが、
僕は勝手に自己組織化があると考えている。
単純な短編の集合体ではなく、
何本もの短編の長さを消費してうねるようになる、
積み重ねのようなものがあるべきだ、
と思ったら、
勝手にストーリーの方から動き出して、
そのように自己組織化してくれる、
と僕は信じている。

逆にそれがないと、
手で一個一個確認しながらやっていかないといけないことになり、
それは相当手間と試行錯誤が必要になるからで、
そんなあてもんのやり方だと、
いつまで経っても正解が引けないと思う。

そうではなくて、
ストーリー自体がその形に勝手になった、
としか作者が言えないような瞬間を、
味わいなさい、
ということか。

まるで魔法のようなものだが、
十分客観的になっていれば、
これは起こると思う。
「ちょっと単発なものばかりだな、
もうちょっと長い時間かけて、
うねるようになっている流れにならないかな」
と感じて、
そのように構成ごと変えて行けるようでなければ、
航海のセンスがない船長に等しい。

もちろん、何バージョンか構成からやり直したり、
設定を変えてみたりするような試行錯誤は、
何度か必要になってくる。
しかしストーリーがそう要求した、
としか言いようのない形に、
最終的には勝手になるものだと、僕は考えている。

問題は、問題意識が、あるかないかだと思う。
なければ一生気づかないことで終わりだが、
あれば、
「ここはいまいちだな、短編だけで終わってしまっている」
と、気づくことが出来るはずだ。
「じゃあ、ここからここまで、
長いうねりになるように構成を組み直そう」
ということに気付けるはずで、
そうすれば、
短編の集合体ではできない、
長編ならではの長い長いスパンでの展開へと、
組み直せるはずだ。
(もちろん実力が足りなければ、苦労するだろう)

こういうことに気付いたり、
それをこうするべきである、
と思う訓練は、
他人の映画を見ることで養われると思う。

自分の鏡を見ることは時に困難だが、
他人のやっていることなら、
比較的分かってしまうからである。
他人のことは分る。自分のことはなかなか分からない。それが人間だ。


ということで、
自分の欠点にはなかなか気づけないが、
気づけるように、冷静であることだ。
これに関しては容易で、
短編の集合体で終わっていないか、
複数長さをまたいで何かをやっているか、
ということが唯一のチェックポイントになってくると思う。


長いうねり。
これは短編の集合体にはない、
長編ならではの流れの面白さだ。
ああ、やっと待ち望んだ瞬間が来た、
そういうゾクゾクは長編ならではだろう。
逆にいうと、短編は、早漏しかできない。
ただの短編の集合体にならないような、
長編ならではのものにしていこう。

問題を整理して、焦点を整理して、
目的を整理して、関門を整理して、
乗り越えるべき障壁を整理して、
情報を与える順番を整理していけば、
おのずと正解に辿り着く。


こういう時に三幕構成理論は役に立たない。
スケールの差が違う。
三つのシークエンスで、とか、
二幕前半全体で、とかのスケールで考えるときは、
もっと別の理論が必要だ。
posted by おおおかとしひこ at 09:39| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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