2020年02月18日

「見る」「話す」「知る」以外の動詞を使いなさい

僕は、ストーリーは動詞で記述される、という見方をしている。
ただ座って話すだけではストーリーにならない。
映画はとくにアクションだ。
パンチするも動詞だし、肩を叩くも動詞だし、立つも動詞だ。

そのシナリオから、動詞だけを抜き出したまえ。


その時注意したいことは、
「…を見る、目撃する」とか、
「…と話す」とか、
「真相を話した」とか、
「真実を知るのであった」とか、
「新しい情報を知る」とか、
「絵で見る動詞」ではないものを、
動詞として数えないことである。

動詞とは、目的語があるべきだ。
目的語は具体物が良い。
ボールを投げるとか、
書類を出すとかだ。

なぜなら、映画とは絵で見せるもので、
かつてはサイレントだったものだからだ。

人々はその人が「何をするか」で、
その人の意図や気持ちを「察した」。
つまり、察せられるように、
文脈とアクションを組むべきだ。


逆にいうと、
「どういうストーリーが、
どういう動詞の組みで、描かれるのか」
が、
シナリオの根幹である。

よくある方法に、
「映画を音無し(ミュート)で見る」
というやり方がある。

絵で見たときに、
「ああこの人はこの人が好きなのだな」とか、
「この人は自分が好きだということを知られたくないな」とか、
「この人は嫉妬しているが、自分だけは気付いてないぞ」とか、
「いまだ、チャンスだ、告白してしまえ」とか、
「この人は怖がっている」とか、
「いま勇気を出した」とか、
「後悔している」とか、
観客が思わないようでは、
シナリオとして出来ていないのだ。

それはすべて、動作とシチュエーションとそれまでの文脈だけで、
表現可能なはずである。


極論すれば、台詞などいらない。
極論すれば、台詞が必要なのは、
「アメリカはカナダの隣にある」などの、
パントマイムでは表現が難しい情報だけでいい。

設定部に台詞が多く、
ストーリーが滑り始めた時には台詞が減りアクションが増え始め、
最後の大立ち回りでは台詞よりもアクションが重視されるのは、
そうした理由だ。



その理想に対して、
ついつい台詞に頼ってしまい、
ストーリーが弱いシナリオがある。

そうかどうかをチェックするのに、
「動詞だけ蛍光ペンで塗ってみる」はとても有効だ。
その時に、見る、話す、知るをとりあえず消すこと、
というのが本題。

その動詞だけ抜き出して並べてみて、
ストーリーが想像できないのは、
シナリオとして弱いのだ。

板付でただお喋りしているだけの、
時間潰しである可能性が高い。


ストーリーそのものが薄いのか、
ストーリーは進行しているが台詞で説明しすぎてるだけかは、
そのシナリオによるのでなんとも言えない。
後者ならば、台詞部分を動詞に上手く書き換えられればまだ救える。
前者は、プロットから再構築しないといけないだろう。
posted by おおおかとしひこ at 01:08| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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