僕は、ストーリーは動詞で記述される、という見方をしている。
ただ座って話すだけではストーリーにならない。
映画はとくにアクションだ。
パンチするも動詞だし、肩を叩くも動詞だし、立つも動詞だ。
そのシナリオから、動詞だけを抜き出したまえ。
その時注意したいことは、
「…を見る、目撃する」とか、
「…と話す」とか、
「真相を話した」とか、
「真実を知るのであった」とか、
「新しい情報を知る」とか、
「絵で見る動詞」ではないものを、
動詞として数えないことである。
動詞とは、目的語があるべきだ。
目的語は具体物が良い。
ボールを投げるとか、
書類を出すとかだ。
なぜなら、映画とは絵で見せるもので、
かつてはサイレントだったものだからだ。
人々はその人が「何をするか」で、
その人の意図や気持ちを「察した」。
つまり、察せられるように、
文脈とアクションを組むべきだ。
逆にいうと、
「どういうストーリーが、
どういう動詞の組みで、描かれるのか」
が、
シナリオの根幹である。
よくある方法に、
「映画を音無し(ミュート)で見る」
というやり方がある。
絵で見たときに、
「ああこの人はこの人が好きなのだな」とか、
「この人は自分が好きだということを知られたくないな」とか、
「この人は嫉妬しているが、自分だけは気付いてないぞ」とか、
「いまだ、チャンスだ、告白してしまえ」とか、
「この人は怖がっている」とか、
「いま勇気を出した」とか、
「後悔している」とか、
観客が思わないようでは、
シナリオとして出来ていないのだ。
それはすべて、動作とシチュエーションとそれまでの文脈だけで、
表現可能なはずである。
極論すれば、台詞などいらない。
極論すれば、台詞が必要なのは、
「アメリカはカナダの隣にある」などの、
パントマイムでは表現が難しい情報だけでいい。
設定部に台詞が多く、
ストーリーが滑り始めた時には台詞が減りアクションが増え始め、
最後の大立ち回りでは台詞よりもアクションが重視されるのは、
そうした理由だ。
その理想に対して、
ついつい台詞に頼ってしまい、
ストーリーが弱いシナリオがある。
そうかどうかをチェックするのに、
「動詞だけ蛍光ペンで塗ってみる」はとても有効だ。
その時に、見る、話す、知るをとりあえず消すこと、
というのが本題。
その動詞だけ抜き出して並べてみて、
ストーリーが想像できないのは、
シナリオとして弱いのだ。
板付でただお喋りしているだけの、
時間潰しである可能性が高い。
ストーリーそのものが薄いのか、
ストーリーは進行しているが台詞で説明しすぎてるだけかは、
そのシナリオによるのでなんとも言えない。
後者ならば、台詞部分を動詞に上手く書き換えられればまだ救える。
前者は、プロットから再構築しないといけないだろう。
2020年02月18日
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