フィクションとは、なんらかの箱庭のことである。
新しい世界を見せて、うわあおもしろい、
というべきものである。
その箱庭のあり方が、
ゲーム、とくにオープンワールドが出来てから、
随分変わったように思う。
「ある新しい世界で自由に遊ぶ」
という箱庭に関しては、
オープンワールドが究極的に実現してしまったように思える。
かつては神話、宗教からはじまった、
「この世界はこのような箱庭になっている」は、
錬金術から生まれた科学が引き継ぎ、
想像を羽ばたかせた小説や演劇へいき、
映画になり、
CGという架空の世界をつくり、
しかも自由に操作できる双方性を手に入れた。
オープンワールドは箱庭遊びだ。
庭を実際につくるよりも遥かに簡便で、
ついでにVRゴーグルがあれば、
没入できる。
世界は法則に従って変化し、
操作でき、リアクションがある。
「架空の世界を想像して楽しむ」
というごっこ遊び、箱庭遊びは、
神話の時代から、
オープンワールドに至って完成したように、
僕には思える。
これにくらべれば、映画は、
オープンワールドからすればただの一本道だ。
箱庭は自由に遊べるからおもしろい。
映画が箱庭たりえたのは、
「ストーリーを見せる」ことの、
映画ストーリーの役割の一方で、
「架空の面白い世界を描く」ことを同時にやり、
ただのストーリーだけでなく、
自由に想像する箱庭を兼ねていたからである。
(そして資金投入の莫大さにより、
架空の世界の実在のスケールやリアリティにおいて、
一番だったのだ)
CGがその流れを変えた。
最初は映画に使われたが、
同じ技術で、
ゲームでもフォトリアリズムができることになってしまった。
じゃあ、
一本道の映画(同じCGを用いたもの)よりも、
自由に遊べるオープンワールドのほうが、
箱庭として優秀だ。
僕はこないだプレステで出た、
スパイダーマンのオープンワールドに衝撃を受けた。
サムライミ版の2あたりから追求してきた、
「蜘蛛の糸でビル街を飛び回る独特の移動感覚を楽しむ」
という経験において、
映画よりもオープンワールドのほうが適していると思ったからだ。
つまり、
映画はかつて箱庭だったが、
今は劣化した箱庭のメディアである。
この場合の箱庭とは、
ある背景や物体があり、
法則があり、自由に操作できる、
という意味合いでしかない。
これが映画で劣るとしたら、
映画はなにを追求すべきか。
人生の擬似体験だと思う。
箱庭は世界の体験でしかない。
映画という一本道は、
ストーリーという人生の一部を切り取ったものである。
それが1カット2時間の人生であろうと、
通常の映画のような、編集された人生であろうと、
「とある人生のいっときの時間を経験する」
ということにおいて、
映画がもっとも優秀なメディアだと、
僕は思うのだ。
だから1カットの映画は、
たぶん意味がない。
省略と強調の効いた人生経験でないと、
経験の意味がない。
そして人生経験とは、
状況判断や迷いや恐れや、
成功や失敗や、
人間関係のいざこざを突破したり回避したり、
いろんなことを通じて、
成功体験を積み、
そこから教訓や他の人に伝える何かへと、
結晶化することだと考える。
だから、それが出来てない映画で、
箱庭だけを目指した映画は、
今後淘汰されるだろう。
3D映画というアトラクションが出てきたとき、
僕は同じことを思った。
テレビがHD化したときも、
同じことを思った。
長らくテレビや映画は箱庭の場を兼ねていたが、
CGの発展によって、
箱庭の役割をゲームに譲ったのだ。
世界の擬似体験は、ゲームでやればいい。
映画は、人生の擬似体験をするべきだ。
で、1917だ。
これは人生の擬似体験としてはただの行軍だね。
世界の擬似体験としては面白かったかも知れないが、
これだったらVRの戦場突破ゲームの方が面白そうだ。
人生の擬似体験としては、
「ひょんなことから主役になってしまい、
メダルを届けた」で終わった、
非常に小品でしかなかった。
10分くらいの短編の内容だと思う。
残り1時間50分、我々は別のもの、
オープンワールド劣化版一本道ゲームを見ていただけだ。
2020年02月20日
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