2020年02月20日

映画は、箱庭であって箱庭ではない(「1917」批評4)

フィクションとは、なんらかの箱庭のことである。
新しい世界を見せて、うわあおもしろい、
というべきものである。

その箱庭のあり方が、
ゲーム、とくにオープンワールドが出来てから、
随分変わったように思う。


「ある新しい世界で自由に遊ぶ」
という箱庭に関しては、
オープンワールドが究極的に実現してしまったように思える。

かつては神話、宗教からはじまった、
「この世界はこのような箱庭になっている」は、
錬金術から生まれた科学が引き継ぎ、
想像を羽ばたかせた小説や演劇へいき、
映画になり、
CGという架空の世界をつくり、
しかも自由に操作できる双方性を手に入れた。

オープンワールドは箱庭遊びだ。
庭を実際につくるよりも遥かに簡便で、
ついでにVRゴーグルがあれば、
没入できる。
世界は法則に従って変化し、
操作でき、リアクションがある。

「架空の世界を想像して楽しむ」
というごっこ遊び、箱庭遊びは、
神話の時代から、
オープンワールドに至って完成したように、
僕には思える。

これにくらべれば、映画は、
オープンワールドからすればただの一本道だ。

箱庭は自由に遊べるからおもしろい。

映画が箱庭たりえたのは、
「ストーリーを見せる」ことの、
映画ストーリーの役割の一方で、
「架空の面白い世界を描く」ことを同時にやり、
ただのストーリーだけでなく、
自由に想像する箱庭を兼ねていたからである。

(そして資金投入の莫大さにより、
架空の世界の実在のスケールやリアリティにおいて、
一番だったのだ)

CGがその流れを変えた。
最初は映画に使われたが、
同じ技術で、
ゲームでもフォトリアリズムができることになってしまった。
じゃあ、
一本道の映画(同じCGを用いたもの)よりも、
自由に遊べるオープンワールドのほうが、
箱庭として優秀だ。

僕はこないだプレステで出た、
スパイダーマンのオープンワールドに衝撃を受けた。
サムライミ版の2あたりから追求してきた、
「蜘蛛の糸でビル街を飛び回る独特の移動感覚を楽しむ」
という経験において、
映画よりもオープンワールドのほうが適していると思ったからだ。


つまり、
映画はかつて箱庭だったが、
今は劣化した箱庭のメディアである。

この場合の箱庭とは、
ある背景や物体があり、
法則があり、自由に操作できる、
という意味合いでしかない。

これが映画で劣るとしたら、
映画はなにを追求すべきか。

人生の擬似体験だと思う。

箱庭は世界の体験でしかない。
映画という一本道は、
ストーリーという人生の一部を切り取ったものである。

それが1カット2時間の人生であろうと、
通常の映画のような、編集された人生であろうと、
「とある人生のいっときの時間を経験する」
ということにおいて、
映画がもっとも優秀なメディアだと、
僕は思うのだ。


だから1カットの映画は、
たぶん意味がない。
省略と強調の効いた人生経験でないと、
経験の意味がない。

そして人生経験とは、
状況判断や迷いや恐れや、
成功や失敗や、
人間関係のいざこざを突破したり回避したり、
いろんなことを通じて、
成功体験を積み、
そこから教訓や他の人に伝える何かへと、
結晶化することだと考える。


だから、それが出来てない映画で、
箱庭だけを目指した映画は、
今後淘汰されるだろう。


3D映画というアトラクションが出てきたとき、
僕は同じことを思った。
テレビがHD化したときも、
同じことを思った。

長らくテレビや映画は箱庭の場を兼ねていたが、
CGの発展によって、
箱庭の役割をゲームに譲ったのだ。

世界の擬似体験は、ゲームでやればいい。
映画は、人生の擬似体験をするべきだ。



で、1917だ。

これは人生の擬似体験としてはただの行軍だね。
世界の擬似体験としては面白かったかも知れないが、
これだったらVRの戦場突破ゲームの方が面白そうだ。
人生の擬似体験としては、
「ひょんなことから主役になってしまい、
メダルを届けた」で終わった、
非常に小品でしかなかった。
10分くらいの短編の内容だと思う。

残り1時間50分、我々は別のもの、
オープンワールド劣化版一本道ゲームを見ていただけだ。
posted by おおおかとしひこ at 12:28| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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