つづき。
以下、名詞的な単語をABC、
繋ぎの言葉をxyzで示す。
僕が、よし、○○○について考えよう、
と思う時、関連する概念や名詞を引っ張ってくる。
「思考とは二種類あるんじゃないか」
と考える時、
ABCには、単語、繋ぎの言葉、タイパー、配列、
薙刀式、飛鳥配列、新下駄配列、いろは坂配列、
脳内発声、
などが浮かんでくるわけだ。
これらは一度に浮かんでくるわけではなく、
徐々にあがってくる。
一種の連想をしていることになる。
繋ぎの言葉といえば、膠着語だなあと思ったり、
韓国語と日本語の二種類しかないんだよねと思ったり、
韓国語の繋ぎの言葉ってどんなだろうとか、
やっぱり天皇は韓国から渡ってきたのではないか、
とか考えたりするが、
後半部分はとりあえず関係ないから消したりする。
で、
沢山のABCが並ぶと、
頭の中が整理できないので記号化する。
これを絵でやる人もいるようだが、
僕は3D空間にうかせた、餅みたいなものが一個一個のABCに相当する。
で、ABCの識別子は、「空間上の位置」で認識しているようだ。
右上にいる餅が配列、その下にいるのが薙刀式、
左横にいるのはタイパー、みたいな感じ。
デスクトップをクリアにした状態で、
ファイルを自由に配置しているイメージかな。
でも2D空間ではなく3D配置のようだ。
奥と手前の感覚はある。
で、
ABCが次々にその空間に呼び出されてくると、
それぞれの関係性xyzが呼び出されてくる。
デフォルトで紐づいている何かだろう。
そこに、新しい関係性xyzが発見できるだろうか、
というのが思考だと、僕は考えているようだ。
「ようし、思考様式を二種類極端に考えるぞー」
と思って呼び出しているのではなく、
「配列と考え方には相関があり、
ABCとxyzについて両極端になっているのではないか」
などとなんとなくもわもわ考えていて、
関連するABCを空間に呼び出して、
さまざまな角度から見たり、
ABCの場所を動かしたりして、
xyzの糸を繋いだり切ったり、
新しい糸で縫ってみたりして、
妥当かどうかを検討する。
ああ、これはこういう観点からxyzであるな、
などと発見があれば、
「これは書けそうだ」と判断する。
つまり、既知のxyzしかなかったら、
「考えたがデフォルトでした」でおしまい。空間を消す。
新しいxyzが張り巡らされたら、
「書く価値がある」と考えて、
スマホやキーボードを取り出すみたいだ。
この時、この新しいネットワークを伝えるべきだ、
あるいは自分のためにメモするべきだ、
というのが書く動機になり、
それが尽くされたときが、書くことのおしまいだと考える。
だから、
僕が書く前に、それはおおむね出来上がっている。
そこに言葉は介さない。
脳内発声がないとはそのようなことだ。
餅と糸の3D空間があり、
餅の位置や種類、
糸の色や触感などが、
僕にとっての言葉の違いのようである。
僕は「触覚」で考える、
などと表現するが、大体こんな感じ。
有機化学の化学式にちょっと似てるかも知れない。
絵で組み合わせを考えるからね。
僕の内的思考では、
絵は介在してなくて、
空間の位置(地図を把握するときに、
あのへんにアレがある、という感覚に似ている)
がABCに相当する。
毎回右になにがあるのか決まってるかも知れないし、
都度呼び出す位置は違うかもしれない。
そこまで観察したことないので不明。
しかし思考の癖みたいなのがあって、
右側は保守、安心、
左側は革新、慣れてないやつ、
手前はすぐに取れるやつ、奥は隠されたもの、
を並べがちだなあ。
僕はそれを外から俯瞰もできるし、
中に小さくなって入り、違う角度からも眺められるようだ。
そのときに裏から見たり、逆を考えたりするのだと思う。
考えることとは、
ABCを並べ替えたり、そこにまつわる糸xyz(デフォルト)を確認したり、
新しい糸xyzを発見したり、
仮につないでみることで、
「ああ、これらは新しいな、
考えたこともなかったが、
このようなxyzでABCを見ることができるぞ」
と気づくことのような気がする。
ABCが餅なのは意味があって、
この思考において余計な部分があれば千切って捨てられるし、
ここでABは同じことを示しているな、
と思えば新しいDに合成する。
その可塑性が餅っぽい。
(粘土でもいいが、より弾力があるので餅とした)
で、千切られたA2や、新しいDは、
3D空間のままでは餅なのだが、
いざ書くときになって、
「これ、日本語で言うとなんていうんだっけ」
と考えて、
ABCの言葉の選定に悩む感じ。
つまり、
僕が思考を文にするとき、
xyzはだいたい出来ていて、
あとABCを、既知の言葉で書くか、
ちょっと違った言葉で書くか、
を迷いながら書く感じ。
どの順で書くかは、
大体今やったプロセスを時系列に書くか、
大事な発見のxyzが分かりやすい角度から書くか、
それを組み合わせて書くか、
だと思う。
思考、すなわち発見
(前記事だと「思考には二種類あるのでは?」)
がわかりやすいプロセスになるように、
頭の中で餅と糸のネットワークを組み替えることもある。
だから、僕にとってはxyzが思考の正体で、
ABCは後付けだ。
名前が適当なので、水際で名前を確認する感じ。
だから、タイピングでは、
ABCを打つのに時間がかかる。
ここは脳内発声ありで指差し確認するときもある。
xyzは既に出来ているので、
ここを速く打つし、打ちづらい配列は使いづらい。
手書きの場合は、
ABCが既知の時は略号で書くこともある。
「配列」は既知の言葉で間違いようがないので、
ニョロニョロの省略度合いが酷くなる。
「薙刀式」は「な」に○くらいでもいいよね。
で、新しいABCや誤解を生みやすいABCは、
楷書できちんと書く感じ。
僕はまだタイピングを手書きより信用していないのは、
このようなニュアンスが手書きでは解読できるからだ。
なにが鮮明であるべきか、なには適当でいいべきかを、
分別しやすいのは手書きだろう。
これは、思考の鮮明さに比例していると考えられる。
(もちろん、手書きではフォントの大きさも変えられるし、
太くも書ける)
自分の思考を、なんとかして描写してみた。
人によって全く異なる様式であり、
他人が違うことすら人には想像困難だという。
これは昨今の流行の多様性である。
思考形式に多様性があるという衝撃が、
まずは重要かもしれない。
思考形式に多様性があったとしても、
(ある程度の)相互理解が可能であることも、
人類の凄い部分だと僕は思うので、
こんなふうにモノを考えている人がいる、
という記録として残しておく。
薙刀式は、このようなことを記すのに適した配列である。
最適かどうかは分からないが、
今のところ不便を感じないのでたぶんいけている。
薙刀式には固有名詞ショートカットがあり、
物語を書くときに適している。
(今書いてる話では、〈空飛ぶサークル〉とか、
サイレント・ドクターとか、|美食家《グルメ》(美食家にグルメの振り仮名)
とか、打つのが面倒なやつを登録しておいて、
3キー同時押しで出せるようになっている。便利)
物語とは、固有名詞を餅として、
その間の糸を順次描いていくことだから、
この感覚が僕の思考形式や配列のあり方に反映していると、
僕は考えている。
で、僕はなぜ書くのかを考えるに、
3D空間デスクトップを常に空にしておきたいから、
ではないかなあ。
つまり文章は脳のゴミ捨てであると。
でもきちんとした形にしたもので、
しかも新しいものであると。
新しくも形にもなってないものは、文章化せずに、
頭の中のゴミ箱に捨てて、寝て消去するのだろう。
2020年02月22日
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