tkenさんのツイートで、
数を数えるのに、脳内発声ありの人となしの人がいる、
というのを思い出した。
(物理学者ファインマンの話が有名)
脳内発声ありで数を数えるかどうかは、
数を数えて、と依頼して、
数えている途中にランダムな数字を聞かせても、
混乱しないかでチェック出来る。
「ひとつ、ふたつ、…」
「いまなんどきだい?」
「むっつだね。ななつ、やっつ…」
という落語の場合、脳内発声ありでのカウントだね。
(江戸時代は鐘をいくつ打つかが時計だったので、
時刻を「むっつ」などと表現した)
算盤をやってた人は、
頭の中に算盤のイメージがあり、
珠をはじいて数を数えるなどという。
脳内発声はないわけだ。
日本人は、
風呂に入って10数える習慣が子供の頃に植え付けられるので、
脳内発声ありで数えがちかも知れない。
(ちなみに関西地方だけで伝承される、
「12345678910」の歌がある。
身近に関西人がいたら、
「風呂に入って1から10まで数えてみて」と聞くとやってくれる)
ちなみに僕はイメージでカウントするので、脳内発声はない。
計算はどうか?
僕は足し算引き算のときは脳内発声なしで、
掛け算割り算は脳内発声ありになる。
足し算引き算は、足して10になる組み合わせが、
頭の中でイメージされる。
10になると消えるテトリスみたいな感じかな。
慣れるとテトリスのイメージなしでも可能だ。
僕が「触覚」でものを考える、
というのは、イメージなしでもいける、
ということを言おうとしている。
「意味の塊」は、触覚としか言いようがない。
7には7の、3には3の、手触りがあるよね。
(僕は文字に対する共感覚がある。
この共感覚は、脳内発声の代わりに発達した能力かもしれない)
掛け算割り算は、九九の脳内発声が大きくて、
小さい桁なら脳内発声なしでも行けるが、
その程度だ。
暗算だと傾向は強く、
筆算だとだいぶ脳内発声は小さくなる。
視覚の助けを借りていると考えられる。
数学は脳内発声はほとんどない。
(数学の脱落者が多いのは、
脳内発声ありでやってきた算数が、
脳内発声なしの数学への移行に失敗するからでは?仮説)
計算と言語は違うが、
どちらも左脳、前頭野の担当なので、
機能は似ているかも知れない。
しかし日本語は特殊な言語で、
右脳も使うことが知られている。
これが、脳内の思考様式が、
人によって異なる原因かもしれない。
(もっとも、外国でこのようなことが議論されているかも知れないが、
どうやって検索していいかもわからないので…)
思考や計算のやり方が異なることが、
なんとなくわかってきている。
これに、異なるスタイルのタイピングや書き方を強制することは、
やはり暴力だと思うのだ。
もちろん人間には適応力があるから、
適応してしまう人もいる。
しかしそれをもって、「全員可能」と押し付けるのはどうかね。
脳内発声ありなし、思考様式のスタイル。
もう少し議論を深めたい。
2020年02月26日
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