2020年02月28日

なぜプロットを書くのか2

事件の顛末を、可視化するためだ。


ストーリーとは、
事件の発生から解決までを描く。
それが最も背骨の深い部分である。

主人公の成長や、人間関係のアレコレはあるものの、
それは事件が発生しなければ起こらなかったことであり、
事件が解決しなければ収束しなかったことだろう。

すべては事件と解決の糸が、
時間軸の真ん中にいる、
センター焦点である。


その事件はどのように起きたのか。
どういう事件なのか。
何が困ったことで、
どういう危機があるのか。

それらはどうやって解決されるのかが結末で、
そこに至るまでどういう経緯を辿るのかが中盤だ。

発生、経緯、解決の瞬間。
それが物語の背骨である。


これらが、
矛盾なく、無理なく、妥当に解決されているかをチェックするために、
プロットで俯瞰するのである。


たとえば、
「巨大な隕石が地球に迫り、人類が滅亡するかも」
という事件が起こるとしよう。
アルマゲドンその他をイメージすれば良い。

もしこれが本当に起きたら、
一体どうやって解決するのだろう?

その道筋が、プロットなのだ。

核ミサイルを何発も放ち、小片に崩壊させるのか。
だとするとその巨大なミサイルはどこから撃つのか。
大気圏を突破できるミサイルはどうやって作り、
どうやって目標に当てるのだろう。
巨大隕石を破壊するのに、
もしくは爆風で軌道変更するのに必要な核ミサイルは、
何発いるのか、どうやって調達するのか。

仮に最初にこれが模索され、
現在の核保有量では無理だと計算されたとしよう。

プランBだ。
宇宙船で接近して、ブースターを取り付ける作戦だ。

しかし高速に回転している隕石に着陸はできない。
巨大なネットを使い、ブースターで減速する作戦が模索される。

それが成功しても、
隕石に着陸してかつブースターを設置、
タイミングよく点火するミッションがある。

これの工程を更に細かく割り、
工期(納期)とコストを設定しなければならない。

盛り上げるためには、
「これに着陸できる腕を持つパイロットは一人しかいない」とか、
「ブースター取り付け任務は、地球に帰還を保証できない」とか、
「どさくさに紛れた軍事スパイがいる」とか、
「離婚して別居していたが、これを期に復活」とかの、
色んな要素が入ってくることだろう。

これらをうまく捌き、
無理なく矛盾なく見事に成功する計画として、
プロットを書くべきなのだ。

プロットとは計画の意味だが、
何にとっての計画だろう。
作者にとっての執筆計画ではない。

「その事件が、解決するまでの段取り」
という意味での「計画」だと考えると良い。

勿論これは神の計画なので、
途中でアクシデントが起こって一見不可能になってしまうことや、
そこからどう立ち直り、見事に復旧して、
当初の計画以上のパフォーマンスになるなどの「展開」も、
計画に織り込み済みにしておくべきだ。


この「発生から解決までの顛末」が面白くなるように、
設定は微調整するべきだ。

巨大隕石の規模や、発見された時期は、
こちら側でコントロールできる設定だ。
衝突半年前に発見されたのか、
衝突一週間前に発見されたのか、
衝突24時間前に発見されたのかで、
ストーリーの展開は全く変わる。

24時間前に発見されたとしたら、
むしろ他国の隠蔽兵器の可能性があるから、
ドラマは外交中心になるかも知れない。

設定を少しいじるだけで、
内容は左右される。
解決の優先順位や方法から変わる場合もあるだろう。

アニメなどで設定を細かく決めるのは、
複数のライターで解決計画を考えるための共有資料に過ぎない。
設定厨を喜ばせるためではない。


また、この背骨の計画(メインプロット)に、
人間ドラマが関係してくることがあり、
これらをサブプロットとして上手くどう絡めればいいか、
という計画の為にも、プロットは使われる。

これらを俯瞰して、
いる部分やいらない部分を判断したり、
設定や展開を変更して確認する為に、
プロットを書くのである。

だからプロットが無味乾燥になるのは当たり前だ。
顛末だけ書かれたレポートのようなものだからだ。

それが本当に面白いかはまだ誰にもわからない。
面白さは、キャラクターやシチュエーションやセリフでも、
全然変わってくるからである。

だが事件の顛末に矛盾や無理があると、
キャラクターやシチュエーションを作りはじめてからだと、
修正が非常に難しくなる。
それらの発生の前にプロットを確定しておくと、
キャラクターやシチュエーションでいくらでも遊べる。

キャラクターやシチュエーションを横糸、
プロットを縦糸として考えると、
その役割を分離できるかもしれない。



しかし実戦ではどちらも湧いて出てくるので、
プロットと言われるものには、
両方が書かれて混じることがよくある。
これらを作者が分離して捉えていれば問題ないが、
大抵は分離して考えていないところが厄介だ。

自分の書いたところで、
背骨だけの事件顛末を抜き出してみよう。

それが矛盾なく無理なく、面白くない限り、
上に何を足しても砂上の楼閣というものだ。



なぜプロットを書くのか。
土台に漏れや穴がないか、全体と部分を確認する為である。
posted by おおおかとしひこ at 13:56| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。