2020年03月03日

人格の使い分けがストーリーに影響を及ぼしている説

最近の若者は、クラスタによってキャラクターを使い分けている。
これが、ストーリーの首尾一貫性を奪っている説。


ネットの登場によって、
交わらない複数のクラスタに、
異なるペルソナで参加することが可能になった。

ツイッターのアカウントを複数持っている人もいるだろう。
本名と偽名、または全部偽名の人もいるだろう。
あるいは、本日アカと副アカ、裏アカを持つ人もいるだろう。

たとえば学校や会社での人格、
ごく身近な人の間での人格、
実家での人格、
部活での人格、
など、
リアルクラスタでの人格が異なることは、
ネットの存在前からもあった。

しかし、これらの登場人物は一部被るため、
全く違う人格を演じることはできなかった。
首尾一貫がありつつ、
メンバーによってアレンジがある程度だ。

アナログ世界で、全く異なる人格を発露できるのは、
たとえばSMクラブなどの性癖の集まりか、
なんとか同好会などの趣味の集まりなどがある。
本名に紐づく必要のない振る舞いができる。


これが、デジタルによって加速した。


お絵かきアカ、BLアカなどは、
ツイッター上でもしょっちゅう見る。
そこで「身バレ」という用語がある以上、
本名に紐づかない振る舞いが前提だ。

バ美肉おじさんもそうだろう。

僕は本名で活動してしまっているが(笑、
ここの脚本論と仕事は首尾一貫しているが、
それと配列論は微妙に人格は違う。
自作キーボードでのリアル文脈では、
映画監督や脚本家やらCMディレクターとしての僕はどうでもいいだろう。
趣味の紳士の集いとはそうしたものだが。

女子会もそういうものだろう。
女子は世間体の仮面を被りやすいから、
それを脱いだ空間が欲しいのだろう。
我々男子は女子会というと妄想が止まらないが、
実態は、井戸端会議と呼ばれたものからそう変わらないと思う。
もう少しエゲツないんでしょう。


特に最近の若者は、
交わらないクラスタに出入りすることを好む。
しかもリアルではなくバーチャルで。
趣味アカと本アカは少なくとも変えるだろう。

人生相談や恋の相談や性癖の話は、
身近な人よりも、全く知らない無名の人に聞いて欲しい、
という欲望もあるだろう。

あるいは願望剥き出しのセックスは、
恋人相手には出来ないよ、という心理もあると思う。


つまり、裏表がより激しくなっていると思う。
裏表だとジキルとハイドでしかないので、
ABCD…といくつもの人格が同居して、
適宜使い分けるイメージだ。


で。本題。

これをずっとやってると、
一つ一つの人格が痩せてくる。


あるクラスタで失敗したらそのアカウントを消して、
リセットできるからだ。

ゲームにおけるリセマラと同じ心理。
ある趣味アカで、なにかをやらかしたらそのアカを消し、
別人のフリをしてその界隈に居続ける、
なんてことはよくあるらしい。

それは、
「得たものは失いたくないが、
悪評はリセットしたい」
という心理だろう。

だから、「成功した人格しか存在しない」
というパラドックスがやってくる。

これは、「弱い人格」だと僕は思う。


人生の首尾一貫とは、
成功も失敗もしてきたうえで、
最終的にどうなるかだと思う。

それが、副アカ多重人格から失われたものだと思う。


こういう人が書くストーリーは、
キャラクターの首尾一貫性が弱い、というのが仮説だ。

適当に人格は使い分けるし、
失敗から極端に逃げる。
だから、
失敗をして尚立ち上がり、
周囲の失望を絶賛に変える、ドラマチックな劇が書けないのでは?



僕が昔やってたゲーセンの対戦ゲームは、
カード制で通算の勝率が記録されていた。
みんな50%越えに調整したがった。

その為に何をするかというと、
初心者狩り、
対戦台の向こうに負けたカードを指して棒立ちにして、
新カードでボコって勝率50%越えにする(吸う、と言われていた行為)、
強いやつから避ける、
みたいなことだった。
「俺より弱い奴に会いに行く」ゲーム、と揶揄された。

それは人の心の闇だと僕は思う。
弱いやつをいじめて、自分が強いふりをしたいのだ。

そんな心理のやつが、
「負けてからの再出発のドラマ」
なんて思いつけるわけないじゃんね。

チートしかできないよね。



つまり、
複数クラスタで人格を使い分けている人は、
チートしか勝利の方法を知らない。

首尾一貫性、つまり、
負けてからの再出発からの逆転を経験していない、
とすら言えるのではないか。


昔からそうだったのか、
ネットによって発達した闇か、
ネットによってその闇が可視化されたのかは、
僕には分からない。

この闇を感じているので、
僕は逆にネットでも全部本名で活動している。

失敗もあるし、失言もあるだろう。
だから責任を取る。
そして前に進む。


ストーリーがチートでリセマラばかりでは、
面白くない。
浅くてすぐに終わってしまう話になるだろう。

二時間ガッツリ味わえるストーリーは、
勝ったり負けたりしながらも、
一度どん底に落ち、
それでも這い上がり栄光を掴む話である。

その起伏を描くのに、
経験をそのまま使う必要はないが、
想像力の足しに、実人生はなるはずだ。

首尾一貫した起伏を描こう。
逃げてばかりの人生では、
想像すら出来ないかもしれない。


(逆にいうと、
ストーリーはネット以前に誕生したものだ。
ネット以後の人生観が、複垢使ってチートリセマラ、
というものに移行したのであれば、
それがストーリーへ変質するのかも知れない。
だとすると、そのチートぶりこそが売りになるだろう。
なろう系はそういうものばかりであることは、
認めざるを得ない)
posted by おおおかとしひこ at 01:07| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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