最近の若者は、クラスタによってキャラクターを使い分けている。
これが、ストーリーの首尾一貫性を奪っている説。
ネットの登場によって、
交わらない複数のクラスタに、
異なるペルソナで参加することが可能になった。
ツイッターのアカウントを複数持っている人もいるだろう。
本名と偽名、または全部偽名の人もいるだろう。
あるいは、本日アカと副アカ、裏アカを持つ人もいるだろう。
たとえば学校や会社での人格、
ごく身近な人の間での人格、
実家での人格、
部活での人格、
など、
リアルクラスタでの人格が異なることは、
ネットの存在前からもあった。
しかし、これらの登場人物は一部被るため、
全く違う人格を演じることはできなかった。
首尾一貫がありつつ、
メンバーによってアレンジがある程度だ。
アナログ世界で、全く異なる人格を発露できるのは、
たとえばSMクラブなどの性癖の集まりか、
なんとか同好会などの趣味の集まりなどがある。
本名に紐づく必要のない振る舞いができる。
これが、デジタルによって加速した。
お絵かきアカ、BLアカなどは、
ツイッター上でもしょっちゅう見る。
そこで「身バレ」という用語がある以上、
本名に紐づかない振る舞いが前提だ。
バ美肉おじさんもそうだろう。
僕は本名で活動してしまっているが(笑、
ここの脚本論と仕事は首尾一貫しているが、
それと配列論は微妙に人格は違う。
自作キーボードでのリアル文脈では、
映画監督や脚本家やらCMディレクターとしての僕はどうでもいいだろう。
趣味の紳士の集いとはそうしたものだが。
女子会もそういうものだろう。
女子は世間体の仮面を被りやすいから、
それを脱いだ空間が欲しいのだろう。
我々男子は女子会というと妄想が止まらないが、
実態は、井戸端会議と呼ばれたものからそう変わらないと思う。
もう少しエゲツないんでしょう。
特に最近の若者は、
交わらないクラスタに出入りすることを好む。
しかもリアルではなくバーチャルで。
趣味アカと本アカは少なくとも変えるだろう。
人生相談や恋の相談や性癖の話は、
身近な人よりも、全く知らない無名の人に聞いて欲しい、
という欲望もあるだろう。
あるいは願望剥き出しのセックスは、
恋人相手には出来ないよ、という心理もあると思う。
つまり、裏表がより激しくなっていると思う。
裏表だとジキルとハイドでしかないので、
ABCD…といくつもの人格が同居して、
適宜使い分けるイメージだ。
で。本題。
これをずっとやってると、
一つ一つの人格が痩せてくる。
あるクラスタで失敗したらそのアカウントを消して、
リセットできるからだ。
ゲームにおけるリセマラと同じ心理。
ある趣味アカで、なにかをやらかしたらそのアカを消し、
別人のフリをしてその界隈に居続ける、
なんてことはよくあるらしい。
それは、
「得たものは失いたくないが、
悪評はリセットしたい」
という心理だろう。
だから、「成功した人格しか存在しない」
というパラドックスがやってくる。
これは、「弱い人格」だと僕は思う。
人生の首尾一貫とは、
成功も失敗もしてきたうえで、
最終的にどうなるかだと思う。
それが、副アカ多重人格から失われたものだと思う。
こういう人が書くストーリーは、
キャラクターの首尾一貫性が弱い、というのが仮説だ。
適当に人格は使い分けるし、
失敗から極端に逃げる。
だから、
失敗をして尚立ち上がり、
周囲の失望を絶賛に変える、ドラマチックな劇が書けないのでは?
僕が昔やってたゲーセンの対戦ゲームは、
カード制で通算の勝率が記録されていた。
みんな50%越えに調整したがった。
その為に何をするかというと、
初心者狩り、
対戦台の向こうに負けたカードを指して棒立ちにして、
新カードでボコって勝率50%越えにする(吸う、と言われていた行為)、
強いやつから避ける、
みたいなことだった。
「俺より弱い奴に会いに行く」ゲーム、と揶揄された。
それは人の心の闇だと僕は思う。
弱いやつをいじめて、自分が強いふりをしたいのだ。
そんな心理のやつが、
「負けてからの再出発のドラマ」
なんて思いつけるわけないじゃんね。
チートしかできないよね。
つまり、
複数クラスタで人格を使い分けている人は、
チートしか勝利の方法を知らない。
首尾一貫性、つまり、
負けてからの再出発からの逆転を経験していない、
とすら言えるのではないか。
昔からそうだったのか、
ネットによって発達した闇か、
ネットによってその闇が可視化されたのかは、
僕には分からない。
この闇を感じているので、
僕は逆にネットでも全部本名で活動している。
失敗もあるし、失言もあるだろう。
だから責任を取る。
そして前に進む。
ストーリーがチートでリセマラばかりでは、
面白くない。
浅くてすぐに終わってしまう話になるだろう。
二時間ガッツリ味わえるストーリーは、
勝ったり負けたりしながらも、
一度どん底に落ち、
それでも這い上がり栄光を掴む話である。
その起伏を描くのに、
経験をそのまま使う必要はないが、
想像力の足しに、実人生はなるはずだ。
首尾一貫した起伏を描こう。
逃げてばかりの人生では、
想像すら出来ないかもしれない。
(逆にいうと、
ストーリーはネット以前に誕生したものだ。
ネット以後の人生観が、複垢使ってチートリセマラ、
というものに移行したのであれば、
それがストーリーへ変質するのかも知れない。
だとすると、そのチートぶりこそが売りになるだろう。
なろう系はそういうものばかりであることは、
認めざるを得ない)
2020年03月03日
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