2020年03月07日

【薙刀式】「最適化」という悪魔の言葉

僕は配列のことを調べ始めた4年近く前、
最適化という言葉に魔力を感じてしまったのかも知れない。


98%効率が99%効率になることが最適化か?
40%が65%になることが最適化か?

optimizationという原語のニュアンスは分からないが、
日本語の「最適化」のニュアンスはどちらだろう?
勤勉で潔癖主義の日本人にとって、
前者が最適化のイメージではないか、
というのが僕の説だ。

「qwertyローマ字は効率が悪い。
従ってキーの位置を変更して、
入力に対する配列の最適化を行う」
という文章で、
最適化のイメージをどう捉えるか、
という問題だ。

最小化minimazationは、
労力を最小化することで、
入力文章が固定していれば、
計算するのは簡単だ。

しかし入力文章が固定しないことこそ創作文なので、
最小化の計算には意味がない。
(日本国憲法とか、メクラぶどうと虹とか、緋色の研究とか、
ベンチマークはある程度あるものの)

従って、
確率的な分布の統計に対して、
最適化を行うべきだ、
というのがこれまでの配列の、科学的立場だったと思う。

それ自体は納得できるけれど、
問題は「最適化」をどう解釈するかではないか。

僕は、
40%を65%にする方が、
98%を99%にするより、
「よい最適化」だと思う。
何故なら効率が2倍以上に上がっているからだ。

もちろん40%を100%に出来るならそれが真の最適化だが、
そんなものがないことくらい、
いまだ最強の配列が決まっていないことで明らかである。

「最適」の言葉に問題があると思う。
潔癖で完璧主義な日本人は、100を最適とイメージしてしまうと思う。
「適当化」くらいの言葉を選ぶべきだが、
適当には「より適したこと」と、「いい加減にやる」
の双方の意味があるため、
妥当ではない。
「妥当化」とoptimizationを訳したほうが、
より妥当ではなかったかね。

だってoptimisimを「楽観主義」と訳すんだぜ。
その程度の、それこそ適当な感覚が、
「最適化」の原語の意味だ。

optimismの語源を更に掘れば、
ラテン語のoptimum、最善を望む主義であることがわかる。
楽観主義とは、「一番ええ結論になったらええなあ」
でしかないことになる。

つまり「最適化」とは、
最善化に他ならない。

実際のところ、
無限の時間と無限のコストがあれば、
最善のものは出来るかも知れないが、
現実の世界(工学)では、
有限時間と有限コストの範囲内で、
まあこのへんが妥当やろ、
で納品するものである。

だから、妥当化、と僕は訳すべきだと思ったのだ。


最適化理論のベース、システム工学は、
数学で解けるようなキッチリした解ばかりではない問題に対して、
どのような妥当解を与え、
それをどう妥当かを見積もる手段を研究する学問だ。
(optimizationを妥当と訳しています)

これを「最適化」と訳したところに、
問題の原因があると、
僕は感じている。

逆に、
意味のない努力をして「ベストを尽くしました」だったとしても、
最善化というもとの定義には当てはまってしまうので、
それはもっと客観的評価をいれようぜ、
となるだろう。



だから、
妥当な配列、
妥当な入力方法、
妥当な打鍵姿勢、
妥当なキーボードが出来れば、
とりあえずゴールとしていいのではないかねえ。

僕の目的と肉体と思考様式に対して、
薙刀式は妥当解だが、
飛鳥や新下駄や月や新JISは、妥当解ではなかった。
hhkbもNiZもパームレストも、
机の上で打鍵することすら、
妥当解ではなかった。


「常識では最適とされていることはなにで、それはなぜか?」
を調べることで、
「その常識の外の使い方をする場合、最適ではない」
ことに気づくことができる。

僕の目的に対して、
qwertyローマ字も普通のキーボードの使い方も、
僕の肉体や思考様式にとっては妥当な解ではなく、
それを3倍の速度に引き上げ、
脳内発声を静かにした薙刀式は、
僕にとっての妥当解で、
それは似たような人にも参考になるぞ、
と僕は思っているからこうして書いている。



最適化理論は、
ある枠組みの中で最適かどうかを評価する理論だ。
その枠組みが変化したら通用しない。
あるプログラミングはある目的を最適化するが、
枠組み=仕様の変更で壊滅することに似ている。
オリンピックは、コロナの流行は想定外の枠組みである。


qwertyローマ字と現行キーボードは、
ビジネスマンのメール(数百文字を一日10通程度)ならば、
最適解なのかも知れないが、
それ以外の枠組みでは最適ではないと思う。

だってLINEをやるならスマホとフリックが最適解だしね。


つまり、
配列設計の袋小路は、
最適解という幻想なのではないか、
と僕は考えたわけだ。


タイプウェルで競うことも最適化幻想、
その他のタイピング大会で優勝することも最適化幻想、
ではないか。
最適化を妥当化と訳せば、
急に0.1秒を削ることに意味がなくなると感じる。

それよりも、
ブラインドタッチ出来ない7割の人をどう救うかを考えた方が、
世界を豊かに出来ると思うなあ。
(個人的な意見だが、センターシフト新JISの普及かな)

勿論タイパーたちの鎬を削る闘いは、
F1を見ることと同じで面白いが、
それと世界はリンクしてないと僕は思う。


薙刀式は妥当解のひとつで、
親指シフトも新JISも、月も飛鳥も新下駄も妥当解のひとつ。
そう思った方が、
用途によって色々あるんだと分かるのではないだろうか。

逆にqwertyローマ字は、
タイパー用(つまり実用ではない固定短文入力)、
ビジネスマンの日常メール、
サイトメソッド用にしか、
妥当解でないかもしれない。
posted by おおおかとしひこ at 07:33| Comment(0) | カタナ式 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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