2020年03月09日

観客の意識のコントロール

三幕構成に合わせて考える。


ざっくりいうと、
一幕、二幕、三幕の役割は、
序論、本論、結論だ。


一幕(序論)

まだ何もわかってない、
意識や関心や考えや文脈もバラバラの人たちが、
一つのこと(センタークエスチョン)に、
集中するようになるまで。

この物語はどういう背景で、
どういうことに焦点を当てて最後まで見ればいいか、
ということのプレゼンが一幕だ。

自分の生きてきた文脈にあてはめれば、
これはこういうことだな、
などと脳がざわざわして、
起こっていることに対して、
このように興味を持てば良いのだな、
と、「座り方」が決まるまで。

ざわざわしていた観客が静かになり、
集中をはじめるまで。

この時点で、これまで生きてきた肉体や脳は、
椅子の後方に置いてきている。
物語の中の世界に入っている。

そして出口はここで想像できている。
センタークエスチョンにイエスと答えるはずだ。
つまりこの物語を、ラストまで俯瞰しているはずだ。
あと90分はその方向性で楽しめばいいと、
安心して身を乗り出すわけだ。

その方向性及び結論が見えていることが、
序論の役目だと思う。
本論の前提、
つまり世界はこうなっているが、
本論ではここの部分を切り取りますよ、
なぜならこのような結論が予定されているからです、
の部分がやれれば、
序論の形式は問われない。


二幕(本論)

なんでもありだ。
だからこそ難しい。
序論が、遊園地はここからここまでです、
と土地を線引きして、閉園は5時です、
と示したとすれば、
その中にどのようなアトラクションが、
どのような動線で置かれているのか、
が本論だろう。

何かと何かはペアになっていたり、
何かと何かは直列であったり、
何かと何かは裏表の関係にあるだろう。

ディテールは微に入り細に渡る。
それらすべてを退屈なく見ていけること。

読めたらおしまいだ。
飛ばしてもいいと思われたらおしまいだ。
ハイハイ大体わかりましたと思われたらおしまいだ。
前提は崩れ、こっちへいくのか、
という意外性があり、
足元は常に不安定であるべきだ。

息をもつかせぬ夢中ぶりで、
しかしほっとしたところはとことんほっとして、
望むと望まざると、
運命に翻弄されるべきである。

本論は「だしもの」である。
なにをだしものにするか、
どの順であるべきか、
先を読めない、興味を失わないものであるべきだ。

そして、半ばを過ぎた頃、
結論が見えてくるべきだろう。

最初に序論で一度思った出口へ、
これは向かっているのだろうかと。
それはますますディテールを詳細にして、
我々を待っていることが確かに予感されるべきである。
なぜなら、
その結論こそが、私たちの向かうゴールで、
観客の出口であるからだ。

結論が見えてきたら、
寂しくならなければならない。
もうすぐ終わっちゃうよなと。
でも終わるために始めたんだ、
終わらせなくてはならないな、
という瞬間があるべきだ。
その偉大なる結論を目撃することが、
本論の展開の、行先である。


三幕(結論)

なんのためにここまで来たのか、
これまでのことは何だったのか、
世界にとってこれまでの旅がどのような意味があるのか、
決まらなくてはならない。
そしてそれは、テーマと言われる。

なぜ始めたのかは、
このテーマで終わるためである。

そのテーマを言うためにこれまでが必要欠くべかざる、
必要十分なものであったとき、
人は満腹する。

さらに、意外なところへ着地するサービスも歓迎だ。
ただの意外落ちではだめで、
それが結論として必要十分であることが必要だ。
意外な着地は必ずしも必要ではない。
王道は、
期待されたものを期待通りに終わらせて、
その期待を120%満足させてくれることだ。
(ドラマ風魔はそこに達していると思う)


これが一点に集約したとき、
三々五々から集まった観客は、
また三々五々の場所や文脈に戻っていく。
しかし同じ一点をこれから永遠に記憶することに変わりはない。
それが、彼らの人生にとって意味があるかは、
序論本論結論が、
見事であったかどうかでしか決まらない。




こうなるように、
我々はコントロール出来てるか、
ということが大事だ。

それはとても簡単で、
普段からそういう風に見てるか、
ということなのだ。

興味が持てないものは興味をもたず、
くそはくそだと正直にいい、
興味が持てなかったのに、段々興味が持てれば正直に申告し、
夢中ならそう言い、
泣いたり拍手したりすればそう言えばよいだけだ。

あなたがもっとも正直な観客であれば、
あなたのコントロールが正しかったかどうかがわかる。

身内びいきや卑下し過ぎなのは、
正直な観客であることにたいして、
誠実ではないと思う。


忖度なんていらない。
自由で正直な観客として、
ストーリーを語ってみればよい。
そのようにコントロールされれば、
満足のいくものになるだろう。
posted by おおおかとしひこ at 21:01| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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