2020年03月10日

4つのタイトル

第一幕にタイトルをつけよう。
第二幕前半にタイトルをつけよう。
第二幕後半にタイトルをつけよう。
第三幕にタイトルをつけよう。

おおむね30分ずつの、大ブロックにタイトルをつけるとしたら?


もちろん、映画そのもののタイトルと、
性質は同じだ。

キャッチーで、簡潔で、
しかもうまく本質を表せていること。


間違ったタイトルをつけてしまうことも多い。
それは、本質を見誤り、
キャッチーなだけにしてしまった場合もあれば、
描くべき本質がまだ出来ていないからだ、
という場合もあると思う。

僕は後者の例だったので、
その経緯をメモしておく。


「空飛ぶ悪夢で会いましょう」という長編の場合。
それぞれ、

空を飛ぶ夢
ファスター
バッド・トリップ
絶望の弾丸

というサブタイにしていた。
問題は三幕の「絶望の弾丸」。
カッコイイし、本編のキーアイテムになるので、
これが中心になるだろうと思っていた。

だが、第三幕の結論としての意味合いを考えるとき、
一幕で前振られたこととは関係がないことに気づく。
夢で始まり夢をタイトルにした作品だから、
それが一体どのようなものであったのか、
というテーマ性に落とすべきであり、
それには「絶望の弾丸」は呼応していないと感じた。

また、本編の内容についても、
夢に関するテーマ性の彫り込みがまだ浅いかも知れない、
ということに気づく。

じゃあどうあるべきか、理想のものを考えて、
かつ本編での重要なビジュアルを用いて、

夢を見る都市

へ変更し、
これにふさわしい内容へと書き換えるべきだ、
と判断した。


ちなみにここに至るまで捨てた案。

集合的無意識の背中
一千四百万の背中
絶望都市
分解する都市
分解仕掛けの都市(「仕掛けの」をつかいたいだけ)

などである。
「都市は自ら分解したがっているのだ」
ということが本編に絡む重要なアイデアなのだが、
これをストレートにいかず、
「夢を見る」とタイトルに引っ掛けて考えるべきだろう、
ということに気づき、
円環をうまく閉じることが出来そうだ、
と見積もった。


このように、
自分で整理し、自分で変形できるように、
タイトルは有効なのだ。

そしてそれ全体が正しいかも、
本タイトルで判断できる。

逆に、そのような検討を経てないタイトルは、
ヌルいと僕は思う。


たかが一行の言葉ではあるが、
俳句よりも全然重いと思うよ。

若い人はつい英語などを使ってカッコつけたがるけれど、
なるべく日本語でやるべきだと思う。

日本語で書けば書くほどボロが出るからで、
それをもっと洗練させた日本語にできたとき、
おそらく内容も洗練される。
posted by おおおかとしひこ at 12:40| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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