だと思う。
何故なら、
「その登場人物たちと一緒になって冒険した」ことが記憶に残り、
その冒険の全体像まで頭が及んでないほど、
夢中だったという証拠だと思うからだ。
ストーリーに齟齬があれば、
「あそこおかしくない?」とか、
「なんでそうしたの?」とか、
「読めたよ」とか、
「意味不だった」とか、
「あの伏線おかしくない?」とか、
突っ込まれまくる。
それが0の時は、
「もう夢中でそんなこと考えてる暇がなかった」
になると思う。
ただただ、
ストーリーに翻弄されて、
さまざまな決断や感情を示す登場人物たちとともに、
ハラハラする冒険をした、
というだけの記憶になると思う。
つまり、
ストーリーを俯瞰できないとき、
ストーリーは完成する。
これが、様々なストーリー論が素人には理解されず、
理論をわかったからといって実践できない理由だと僕は思う。
ダメなストーリーはストーリーが目立つ。
いいストーリーはストーリーを感じさせない。
ストーリーではなく、ハラハラの連続でしかない。
だから、いいストーリーほど記憶に残らない。
だから、夢中で一緒に旅した仲間、
つまり登場人物のことしか覚えていない。
このキャラは良かった、
というとき、
初期設定が良かったということを意味しない。
ある場面での決断がよかったとか、
ある場面でのセリフが良かったとか、
かならずそうした、「キャラの冒険」の部分についての、
言及であることが多い。
逆に、それ以外にストーリーの記憶の仕方が、
人類にはないのではないかと、
今僕は考えている。
ストーリーとはなにか。
それは、目に見えないものである。
具体的には、
問題と焦点と行動と結果とターニングポイントの、
連続体で示せるものだと思うけれど、
専門家でない限り、
それを構造化しながら見ることなど出来ない、
と僕は考えている。
「ある話のストーリーを落ちまで説明してください」
という問題は、
実はものすごく難しい問題である。
見た映画のストーリーを、
見た漫画のストーリーを、
あなたは正確に表現出来るか?
大抵は、どこかで歪んで記憶しているはずだ。
それを正確に描写できるようになれば、
恐らくはストーリーとはなにかを、
少なくとも体でつかんでいると言えると思う。
そのストーリーがなぜ良かったかを、
人はキャラクターを軸足にしてしか説明できない。
人間の肉体を通してしか、
体験のことを話せないのだと思う。
肉体がないものは、だからストーリーにならないと、
僕はなんとなく考えている。
いいストーリーを見た後、
そのストーリーのなにがどう良かったか、
説明してみたまえ。
100%の人が、
「○○(キャラ)がよかった」
の軸から評価するはずだ。
だから、我々脚本家は恵まれない。
役者の功績になってしまうからね。
そのキャラクターを造形したのは脚本家であり、
そのキャラクターの動きをすべて創造したのは、
脚本家以外にないのだが。
あなたの好きなストーリーはなにか?
なぜそれが良いのか?
きちんと説明できるだろうか?
> ダメなストーリーはストーリーが目立つ。
> いいストーリーはストーリーを感じさせない。
> ストーリーではなく、ハラハラの連続でしかない。
> 正しいストーリーの感想は、「○○(キャラ)が良かった」
それはキャラだけで他は何も無い、という状態と違うのでしょうか?
最初からストーリーなど無かったら、無いけれどもあるように見せかけていたらどうなると思いますか?
具体的な方法は想像もつきませんが、怪談「牛の首」や水着写真を水玉模様で隠すように、見た者が想像力を働かせてあたかも素晴らしい物語だったように勝手に脳内補完してしまったら?
劇中の描写や設定から二次創作をするのはとても楽しいですが、それは本編ストーリーという大樹の枝葉だから価値があるのであって
最初から枝葉だけをバラ売りされてもそれは単なる枯れ枝枯れ葉に過ぎずさしたる価値は無いように思います。
ですが、作り手も受け手も(一見大樹に見える)枝葉のバラ売りに慣れ、(受け手側が)各自勝手に枝葉で遊ぶようになってしまったとしたら
(そもそもそんな状況があり得るのでしょうか?)
二次創作は楽しいですが、それは二次創作をした人(もしくはその人の内輪のコミュニティ)の中でグルグル回っているようなもので、外に突き出していくものでは無いように思っています。
なにかの作品を見た人が皆内輪にこもって、誰も外にエネルギーを突き出さないとしたらどうなると思いますか?
キャラが良かった≒キャラしか(中身が)無い と、私は思ってしまいました。また、両者の区別は私の目では出来ないと思います。
両者はどう違うのでしょうか?
全く両者は異なります。
良いストーリーは、ストーリーが存在しないように見えて、
キャラがよく見えます。
キャラだけのやつは、キャラはよく見えますが、
合間にスマホとかをいじったり、巻き戻したくなります。
良いストーリーは、途中では「夢中」しかありません。
あとで思い返したとき、キャラくらいしか思い出せません。
キャラだけのやつは、キャラ萌えポイントをチェックする余裕があります。
だから嫌いなキャラや不人気キャラが出てきたらブーイングか、
スマホを見るでしょう。
両者の区別がつかないのなら、あなたには見る目がありません。
今日読んだばかりのSF小説「たったひとつの冴えたやり方」をお勧めします。
ものすごく面白いストーリーでした。
でも覚えてる場面場面は、やっぱりコーティーという主人公のことなんだよね。
ストーリーとキャラクターを分離することは、
ふつうの人間の記憶力では出来ない、と僕は考えています。
出来るのは特別な訓練をした人だけで、
このブログではその訓練の仕方について論じ続けています。
激しく感動したわけではなかったですがとても面白かった。
具体的に何なのかは説明出来ませんが、色々なものがガッチリと隙間なく噛み合ったとてもきれいな物体、という印象を受けました。
ただそれ以上にこの作品と比較出来るような良い作品悪い作品の引き出しが自分の中になく、作品というものを考えるのに知識見識が全く不足しているということに気づきました。
非常に小賢しいコメントをしてしまい恥ずかしく思っています。
大変よい勉強になりました。ありがとうございました。
「色々なものがガッチリと隙間なく噛み合ったとてもきれいな物体」
というのはとてもいい表現だと思います。
その「色々なもの」を一つ一つ名付け、
その「噛み合い」を一つ一つ検証していくと、
専門用語が必要になります。医学の解剖用語みたいなものですかね。
でも結局、コーティーのことばかり考えてしまうなあ、
あの父親の思いはなあ、長官の言葉もわかるよなあ、などの読後感で、
キャラクターの記憶しかなくなるんですよねえ。
特にネタバレ厳禁なストーリーでもあるし。
このキャラクターの記憶ゆえに、
ろくなストーリーもないキャラものが、
悪貨として流通してしまうと考えています。
両者を区別する言葉がなかなかずばりと言えなくて、悶々としております。
大岡様は「けいおん!」などの作品についてはどうお考えですか?
僕が働き始めたのがエヴァのあたりで、
それから深夜アニメは一切見てません。
ノイタミナは見てたか。
「けいおん!」と「涼宮ハルヒの憂鬱」とガルパンとアイマスの違いも、
全然わかりません。
僕はヒーローアニメ育ちなので、萌え日常系と思われるものは全無視で生きています。
映画というものともあまり関係なさそうなので…
同様に、ラノベとなろう系は全部同じに見えるので、
それらはないものとして生きています。
言葉はあれですが、なにかの隔離場所に見えるので、
知らない人間が首を突っ込むのも失礼かと距離を置いています。