僕にとって、これは真逆の行為だぞ、と気づいた。
コピー打鍵は、書き取り。つまり向こうからこっちに引き寄せる。
創作打鍵は、こっちの中から向こうへ出す行為。
インプットとアウトプットくらい逆だなこれ。
薙刀式は創作打鍵用につくった。
書くための道具であり、
写すための道具だとは特に考えていない。
これまでの配列議論、タイピング議論では、
これらはなんとなく同じものだと無前提に考えられていたように思う。
ところが、少なくとも薙刀式を僕が使うときに、
コピー打鍵と創作打鍵では、
脳の使っているところというか、
感じている感覚というか、
そういうのが真反対だな、
と最近感じるようになってきた。
最近とても長い小説を書いていて、
原文は手書きでそれを薙刀式でコピー打鍵する行為と、
ブログやアイデアを薙刀式で書く創作打鍵行為は、
どうやら真反対の別物だぞ、
という意識が働くようになってきた。
コピー打鍵は、間違ってはいけない。
間違いはミスであり、正すべきものである。
ものを片付ける行為、
決められたポストに正しい手紙を入れる行為に似ていると思う。
創作打鍵は、
僕は書きながら考えを明らかにしていくタイプ
(もちろん構想は先にある)なので、
間違うか間違わないかはそんなに意識しない。
むしろ間違いこそアイデアの源泉になったりする。
ものを散らかす行為、
好きなポストにランダムにチラシを入れる行為に似ている。
文意は、
コピー打鍵の場合、自分に入ってくる。
創作打鍵の場合、自分から出て行く。
仲立ちをするのが、配列と指と運動。
大体そんなイメージ。
脳内発声がないことと関係あるのだろうか。
脳内発声がある人は、
コピー打鍵の場合、文章が音声に変換→それをタイピング、
創作打鍵の場合、脳内の文章が音声に変換→それをタイピング、
と、
「文章が脳内発声→タイピング」
の過程は変わらないような気がする。
だから、これまでコピー打鍵を測定することが、
タイピング技能や配列効率を測定することである、
と無前提に思われてきたかもしれない。
脳内発声がない僕の場合、
コピー打鍵の場合、
読む→(理解)→画面の文字を「自分に」入れて行く
のようなプロセスを踏んでいる。
創作打鍵の場合、
概念で考える→それを「文字に」吐き出す
のようなプロセスだと思う。
目的地が逆で、
脳の使っているところが異なると思う。
薙刀式はあくまで、
自分から出たものを指に通すための媒介物で、
自分に入れるための媒介物ではないっぽい。
そうそう、
タイパーが○のキーを○指で「取る」
という感覚がまったく分からなくて、
僕は○が「出る」って感じている。
ボールを取りに行くのと、
うんこが出る感覚の違いだろうか。
そもそも出す道具としての薙刀式の感覚を、
取りに行ったり、入れたりする感覚のためには、
使えない気がしてきたのだ。
タイピングゲームをクリアしていく感覚は、
シークエンスをやっつけていく行為だ。
寿司打を見ても、
流れてくる寿司を「取る」感覚なのだろう。
薙刀式の「出す」感覚とは、
「寿司を握り、回転するレーンに置く」
感覚なのかも知れない。
僕がタイプウェルに熱心にいまいちなれない理由は、
薙刀式が快感である一番の感覚とは、
ずいぶん遠い感覚を強要されるからかも知れない。
僕は創作打鍵をしたいわけで、
今のところ、これだけやっても手書きの勝ちだ。
デジタル発信の必要のない原稿なら、
僕は手書きを選んで、
その後コピー打鍵する。
このコピー打鍵は、薙刀式でなくてもいいかも知れない。
しかし僕が使える最も速い配列なので、
薙刀式が合理的というだけかもだ。
(創作打鍵では1500〜1200字/10分なのに、
コピー打鍵ではいつも700〜850くらいなんだよね。
それがそもそも不思議で)
デジタル発信する文章、
たとえばこのブログや、
長文メールは、薙刀式で書く。
(Edge上で薙刀式が使えないため、
エディタに下書きしてコピペするくらい)
手書きでコピー打鍵?することはあるかな。
ノートを取ることだろうか。
一般に、手書きのほうがタイピングよりも頭に入ることが知られている。
僕は「入れる」のも、手書きかも知れないなあ。
薙刀式の仮想敵は、
qwertyでもローマ字でも親指シフトでも新下駄でも飛鳥でもなく、
手書きかも知れないなあ。
脳内発声のない他の人はどうしてるんだろ。知りたい。
あるいは、
脳内発声のある人は、これらの方向性は僕と異なるはずで、
そのあたりの矛盾や住み分けを知りたい。
手書きよりタイピングが完全上位互換になるだけなのかしら。
2020年03月12日
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