「○○対○○」は、物語の基本構造である。
そこを、どんなところに見つけるか、だ。
人生には色々な対立がある。
他人がいれば対立がある。
喧嘩だけが対立ではない。
ちょっとした齟齬、違和感、どっちかが我慢する、
受け流せない何かがある、
程度でも対立になりえる。
その刺が拡大するように物語を整えることは可能だからだ。
エスカレートは作劇上可能だとわかってきて、
それを自分でコントロール出来る様になってくると、
今度は、
「世の中にどんな対立(の芽)」があるのだろう?」
と探す目になってくる。
たとえば。
コロナに対するそれぞれの意見はばらばらだ。
これを作劇上使うことは全然可能だ。
「何がなんでも検査し、しかるべき処置をするべき」派と、
「家で免疫力で治すしかない、特効薬ないんだから」派を、
両極端につくっておいて、
「ラーメン屋で、なるとを入れるべきか入れないべきか」
という状況に二人をおけばいいのである。
最初はラーメンのことで揉めるだろう。
しかしコロナに対する態度が全く違うことがわかり、
二人は深刻な対立になるはずである。
なるとを巡ったごく小さな傷が、
コロナに対する深刻な対立を暴く形になるわけだ。
こうなったら掴み合いや戦争にまで発展しえる。
なると戦争だろうか。それともコロナ戦争だろうか。
冒頭のビジュアルから、
これはなると戦争と第一印象を取って言われるだろう。
このように、
対立の刺を探すことが、
実は作家の目なのだ。
人間はどのようになっているのか、
人間社会はどのようになっているのか、
日常と非日常はどこでどうつながっているのか、
そうしたことを、
どれだけわかった上で、
導火線をどう仕込むのか、
みたいなことなのだ。
対立のない物語はない。
対立こそが物語だ。
物語とは、対立の発生から収まるまで、
と定義してもいいくらいだ。
じゃあ、どこがその第一歩で、
それがどうエスカレートするかをコントロールしていくと、
それがストーリーになる、
ということが分かるはずである。
エスカレートそのものも、
小さな対立する刺があればよい。
先の例で言えば、関西人と関東人であるとか、
野球派かサッカー派とか、
そんな別の違いを持ってくるだけで、
「お前とは分かり合えない」を作ることが出来るだろう。
つまり対立とは、
「お前とは立場上目的が異なる」と、
「お前とは分かり合えない」の、
ふたつの事情と感情の渦巻きであるわけだ。
そのようなものを世の中から探そう。
いくらでもある。
よくある対立を描いて、悦にいっている場合ではない。
2020年03月15日
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