論文で結論を決めてない、といったら阿呆かと言われる。
逆に結論ありきの議会など、やる意味はなくただのポーズだ。
前者は議論、後者はアドリブによる調整であるべきだ。
ストーリーはどちらだろう。
僕は、アドリブに見せかけた、綿密な前者だと考えている。
運命をどう考えるかに似ているかも知れない。
運命は、ミクロで見れば自由意志だ。
どういう状況でどう動くのか、
すべてアドリブであり、
ある考えのもとの首尾一貫したものであり、
偶然に助けられたり妨げられたりして、
結果を出したり出さなかったりする。
マクロで見た時、神の介入や意志を感じることがある。
僕は、ストーリーはこのようになっているべきだと考える。
運命はどうあるべきは知らないが、
そうじゃないと腹に落ちないからだ。
逆にいうと、
ストーリーは、腹に落ちるべきだと考えている。
腹に落ちないストーリーは、それでいいのだろうか?
ただの空騒ぎでいいのだろうか?
僕はストーリーはただのパーティーであるべきだとは思わない。
だったら有名芸能人を集めて、個別にカメラ持たせて、
適当にしゃべったり何かすることをやれば、
それで終わりだろ。
(そしてTVのバラエティがそうなりつつあるが)
それとストーリーは異なるものだと考えている。
100日後に死ぬワニを、
ストーリー論から考えてみよう。
以下ネタバレします。
「100日後に死ぬことを知らないワニが、
仲間と遊んだり恋をしたりする日常を100日分描き、
かけがえのない日常の大切さを描く」
というコンセプトだったと思う。
じゃあ、結論はどうあるべきだ?
「100日生きてよかったね」?
「やっぱり死ぬんじゃ意味ないね(もののあはれといい、
平安時代に日本が到達していた境地)」?
死に意味がない以上、生に意味があるべきだ。
だとしたら、
死ぬのは「誰かを救って事故に遭う」などという、
「意味のある死」であるべきではなかった。
これでは、「誰かを救って死ぬことは、尊い」
という意味になってしまう。
もっと意味のない死に方にするべきだったろう。
信号無視の車に跳ねられるとか、
転んで死ぬとか、
落ちてきたものに当たって死ぬとか、
もっと理不尽に死ぬべきだった。
そうすれば、「死よりも、100日の生に意味がある」
ということに帰着できたはずだ。
4コマのフォーマットを守りながらそれは出来た。
1: ワニ、致命的な死に方をする。
2: 死の直前のワニ、桜の花びらが顔にかかる。
3: 地面から見あげた桜にセリフのみ。「きれいだなあ」
4: 花見でみんな待っている。「おそいなあいつ」
こんなふうにすれば、
「死に意味はない。これまでの100日に意味があった」
ということが可能だ。
ただし、これまでの100日間が、
それほど輝いて見えるほどの人生でなかったので、
このラストにしてもなんにも響かない。
だから、リライトするのである。
結論を決めたら腹が決まる。
じゃあ、100日間はもっといろんな人生の可能性を描くべきなのだ。
友達のために無茶をして逮捕されるとか、
誤解を受けたまま喧嘩別れするとか、
雨の中デートを待って風邪をひくとか、
彼女と大喧嘩するとか、
この世の頂点のような幸せを味わうとか。
起伏がもっとあれば、
「ああ、あれがピークで、あれがボトムだったね、
人生生きてよかったじゃん。
大したことないと思ってたけど、案外面白かったよ」
となると思う。
死亡フラグと言われても、バンバン生き急げばよかったのさ。
現代は死亡フラグを立てないように生きている気がする。
細く長く生きていこうとしていると思う。
そういうときに、太く短く生きたワニを見せることは、
意味があることだと思う。
しかしそうでもなかったので、
はて「100日後に死ぬワニ」とは、
果たしてなんだったのか、
が不鮮明になってしまったわけだ。
だから、「広告代理店のステマ乙」
という「意味」へ収束してしまう。
これが「生きるって面白いし、辛いし、色々あるよね。
それがいいんだ」ってなったら、
ステマだったとしても、「名作を見れてよかった」
とマーケティングに感謝だろう。
グッズはバカ売れし、映画は「もう一度あの100日を振り返る」
が出来たと思う。
すべては「結論が微妙」だから、瓦解した。
ちなみに、最初数話、
「死を軽々しく使うこと」を出していて、
それがテーマ性になるかと思ったが、それも途絶えたね。
昨今のドラマが全く心に残らず、
泡沫のように出ては消えていくのは、
視聴率を見ながらアドリブで脚本を書いているからだ。
結論を決めて書いていないから、
ただの芸能人バラエティにしかなっていない。
「100日後に死ぬワニ」も、
ワニくんと友達と彼女が、バラエティをしていただけに終わってしまった。
ストーリーを書くことは、
結論を決めることである。
その結論に向かって、
もっとも起伏があり、もっとも感情が縦横無尽になり、
もっとも感動し、もっとも笑い、もっとも怒り、
もっともハラハラし、もっともノリノリになる、
まるでアドリブかのようなものをいう。
ミクロではアドリブで、
マクロでは神の意志で。
それらを操る者を、ストーリーテラーという。
「あと、七十五日しか生きられない男」
だそうです(実際の映画はもっと長く生きてますけど)。
橋本忍はこれを「テーマとストーリーを一緒にするだけでなく、それをさらに縮め、一口で言える言葉に凝縮する」ことと書いています。
これってつまりログラインのことでしょうか?
当たり前ですけど、ワニは「生きる」の足元にも及んでませんね。
ちなみに、このテーマとストーリーを一緒にするシナリオとしては、
『七人の侍』が「百姓が侍七人を雇い、向こうの山から襲ってくる山賊と戦い勝利する話」。
『切腹』が「切腹の座につき、今から切腹する、ある一人の浪人者の恨み節!」
橋本の師匠の伊丹万作の『無法松の一生』は「ある一人の人力車夫が、未亡人に恋する、風変わりな恋愛映画」だそうです。
おおむねそう考えてもらって良いと思います。
ただし、「恨み節!」とか「風変わりな」と、
惹句でごまかしてる部分はよくないですね。
「平凡なものではない」を表現しようとした苦労だとは思いますが、
だったらその非凡さをうまくこの一行の中に表現すべきと思います。
「切腹を命じられた武士が、○○○を暴露する話」とか、
「人力車夫と未亡人が恋をして、○○○になる話」とか、
(僕は未見なので内容まで知らないですが。切腹は見たけど忘れた)
内容の核心に肉薄するべきと思います。
ログラインは、こうした、役職が異なるスタッフ同士の会話に使うことが多いです。
観客相手には、もっと惹句をまぜたキャッチコピーになるべきですね。