言語は最初は音声だった。
文字があとから発明された。
最初は音写だったが、そのうち「概念」を示し出す。
このとき、言文が不一致になったと思う。
万葉仮名が音写で、
漢文が公文だったとき、
すでに公文が言文不一致であった。
日本語は、平安時代から、
音による言葉と、文章が乖離を起こしていた歴史がある。
明治に、言文一致運動があり、
大体は達成できたような感がある。
このときにローマ字を国語にしようとした経緯もある。
しかし、ローマ字を音写だと考えると、
日本語の50音はおかしい。
「ち」が「てぃ」に、「つ」が「とぅ」にならない理由。
長音の存在と表記の揺れ。
拗音が特定の音に固まっていて、「とぁ」とかを使わない理由。
あり得る可能性を網羅した99式ローマ字が存在するが、
なぜこれがナンセンスなのか。
僕は、
「ことばは音から始まったが、
途中から文字による介入が始まり、
ごった煮になり、
もはや音だけでも、文字だけでもない存在になったから」
だと考えている。
文字は所詮便宜上だ。
音も便宜上だと思う。
僕は、概念の方が大事だと思う。
ということで、
僕の脳内は音を介在せず、概念だけで考えている。
いや、僕が「概念の方が大事」と思うのは、
僕の脳がそのような形式で考える臓器だからかも知れない。
脳内発声ありで考える人は、
言語をまた異なる形式のものとして扱っている可能性がある。
たとえば歌手や作詞家やアナウンサーは、音声言語ありきだろう。
どちらが優れているとはわからない。
普段扱うものの性質によって決まるかも知れないし、
脳の性質によって普段扱うものの大小が変わってくるかも知れない。
僕は普段から音楽を聞く習慣がない。
音楽がないと死ぬ人もいるだろう。
めんめんつさんがブログで書いていたが、
僕の中では「王様」は、この概念のまま存在して、
脳の中で音はしない。
「おうさま」は、そのふりがな表記、
「おーさま」は、その発音に近い表記法で、
「O様」の発音ともとれるがアクセントが違うな、
くらいの「概念」だ。
あ、「おうさま」は「追う様」とも取れるね。
それらが渾然一体となってリンクしながら存在してる感覚。
発音のことを考えるときは、口が無意識に意識されるし、
耳が無意識に意識される。
発音のことを考えないときは、口や耳はオンにならない。
そういえば僕の姓であるところの「大岡」だが、
ひらがな表記は「おおおか」だ。
ローマ字表記はoookaだが、
「外人が読めない」として、パスポートはooka表記に改めさせられた。
腹が立つので名刺はoookaにしている。
発音は、「おーか」の人と「おーおか」の人がいる。
めんどくさいのでoookaが守れればそれでいい。
概念はひとつで、表記がたくさんあるだけだ。
幼稚園の頃は、かばんに「お」が三つ書いてあって恥ずかしかった。
文字は便宜上のもので、音も便宜上のもので、
概念が先にある、と僕が考えるのはこうした感じ。
そしてややこしいのは、
そう考えない人も日本語を書いたり言ったりして、
その人の考える、文字や音や言葉の関係も違っていて、
それらは統一できないし、してはいけない、
というところだと思う。
僕はそれをおもしろいと思うだけだ。
人工言語に僕が興味が持てないのは、
「ひとつの知性によって整理されたもの」
を感じるからである。
ことばは「異なる者の媒介物」だから、
もっとずっと汚れていていいと思うんだ。
バラバラの方向の知性を(誤解も込みで)繋ぐから、
面白いんじゃないかと思うのだ。
つまり、自然言語の複雑さ(例外の多さ、ルートの多さ)は、
「異なる者の繋ぎ方がたくさんある」
ことから発生していると僕は考えている。
で、そんなこんなな言葉を書くのに、
やっぱローマ字は不合理だと思う。
最善は漢直、次善でカナ配列。
ローマ字は「キーが少ない」しか恩恵がない。
カタナ式くらいにキーが少なければ革命的だが、
qwertyマスターするくらいなら、
もうちょっと粘って30キーくらいのカナやったほうがいいと思う。
これも僕から見た主観だけどね。
2020年03月21日
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