完成をいつと考えるべきか。
「もうこれ以上ない、完璧な状態」で世に出すべきか。
その判断基準は間違っている。
僕は、完成の基準は、
「初見で最高に面白い状態」だと思う。
それには、ある程度の遊びが必要だ。
少し隙間があって、その時に考えを深めたり、
少し予想できることがあったり、
解釈に揺れがあって、考える余白があったり。
「完璧なものを作ってから、リリースしよう」
という考え方だと、
ギチギチに詰めがちである。
「あ、あれも入れたかった、これも入れたかった」と。
それで、結果、
初見の人が見るには情報過多なものが出来上がる。
トランクは余裕を持って詰めるのだ。
ギチギチに詰めてはいけない。
空気を含み、そこで観客が自由に遊べるような、
空間が必要だ。
勿論スカスカではダメだ。
その物語の枠組みの、
どこがギチギチで、
どこが余裕があり、
どこがスカスカかは、自分で批評するべきだ。
そして、スカスカを充実させ、
ギチギチを間引き、
尻尾まであんこが詰まりつつ、
想像できるだけの余裕のある、
初見で最高に面白い状態をつくるのである。
創作の終盤戦、
完成が見えてきてからは、
少しずつ削っていくようなスタイルになる。
ピークに向かっていくような感覚があり、
その頂点で放出したいのは人情だが、
そこは「何度も何度も書き直した人しか分からない、
ギチギチの部分」かもしれないと言うことを、
頭の片隅に入れておくべきだ。
たくさんたくさん詰めたものを、
観客は持って帰れない。
一個だけ大きくて大事なお土産しか、
持って帰れない。
そこに集約できるように、
余白を埋めてはいけない。
ピーク前にリリースせよ。
あなたのピークは、観客のピークとは限らない。
と思いますが、
「初見で最高に面白い状態」であるとともに、何度で見れるような作
品を作りたいわけですね。含蓄がある作品を作りたいわけですね。
「初見で最高に面白い状態」というのが、同時に「何度でも見れる」の
基準とおそらくは同じだったりするのだと私は思います。しかし、それ
はなぜでしょうか?
私が考えれば良い事ですから、感想を述べたまでです。
意見を述べる場合も、どこどこまでも詰めてから発言するということで
なくて良いと思っています。お説教じゃあるまいし。検事が起訴するとい
うような事でもないから、人権や名誉に絡むわけでもない。
聴衆の時間を奪うとか、共有の資源を使わせてもらうという事は確実にありますが。。
何度見ても初見の面白さがあるものが、
ベストだと思います。
完璧なものは、初見でも100回目でも完璧なものです。
バックトゥザフューチャーとか。
それ以外は単に何かが足りないか余計と僕は考えます。