2020年03月24日

ムービーは絵じゃない

そんなこと言われなくてもわかってる?
ほんとにそうかな。
これだけ違いがあるぜ。


・一度に全部を俯瞰できない
・順番に見なければいけない
・飛ばせないし、スローにできない
・巻き戻せない
・間がある
・一度に得られる情報に限りがある
・予測があり、当たる時と外れる時がある
・目の前で見えていることと、省略されたことがある
・最後に全部のピースがはまって終わる



・一度に全部を俯瞰できない

絵は下がって全体を俯瞰できる。ムービーはできない。
絵は全体を俯瞰して、重要なところや気になるところの目星をつけられる。
なんなら写真を撮り、丸をつけることができる。
ムービーはできない。
いくつかのしおりを挟むことはできそうだが、
全体の構造を俯瞰するには、一度最後まで通しで見なければならず、
そしてそれは鑑賞の終了だ。

絵は全部を俯瞰できるし、ずっと細部を見ていてもいいが、
ムービーはできない。
一秒を一秒しか見れない。


・順番に見なければいけない

優秀な絵は視線の誘導があるという。
あるいは、あえてごちゃごちゃにして視線がさ迷うのを楽しむ絵もある。
仕掛けを探してねというタイプの絵もある。
これは、自由に部分を見ることができるからだ。

ムービーは違う。
1の次は2を見て、2の次は3を見なければならない。
ムービーは、「次」を強制するメディアだ。
絵は自分の興味で次を決めていい。
ムービーは次に興味がないと強制がうざい。
つまり、ムービーは「乗って見ている」ようにしなければならない。

ただそれを出すだけの絵とは違い、
ムービーには誘導が存在する。


・飛ばせないし、スローにできない

1秒を1秒見るしかできない。
退屈だから飛ばすことはできない。だから退屈は罪だ。
スローにできないから、す早すぎてはいけない。
十分な集中があれば、1秒を1秒で楽しめる。
その状態に常になっていなければならない。

絵はその必要がない。


・巻き戻せない

もう一度見直せない。
だから注意をひいてから重要なことをするべきだ。
絵はその必要がない。


・間がある

テンポを作るために間を使う。
重要なことを待ち構える時、
ヤキモキさせる時、
強い感情を味わう時。
またその逆張りもある。
順目だと思ってたら逆目、逆目だと思ってたら順目、
などもある。
1秒を1秒で体験させるから、緩急で感情をコントロールする。


・一度に得られる情報に限りがある

絵は無限の情報を詰め込めるが、
1秒あたり1秒の情報しか人には処理できない。
僕が高画質化に反対するのはこの理由だ。
作り込みのコストが上がるだけだからだ。
情報処理限界を超えたビジュアルは、絵でやればいい。
ムービーは体験であり、情報過多ではない。


・予測があり、当たる時と外れる時がある

流れが存在する。
流れとは、今までと現在で接線を引いた、
未来に対する予測のことだ。
「このままいくとこうなるだろう」だ。
絵にはない。時間のことだからだ。

これをそのまま当てさせると、
「俺の予想が当たったぞ!」または「それは読めたよつまんねえ」になる。
外れさせると、
「まさかそんな展開に!」または「それはねえわ」になる。
どちらになるかは、
流れのセンス次第だ。
そしてその時間的な起伏こそが流れである。

絵にはない。


・目の前で見えていることと、省略されたことがある

飲み会の帰り二人で帰りました。
次の日に飛び、「あのあとなにがあったんだよー」
とすることができる。
この場合「あのあと」は時間的省略をされている。

描かれている時間のことを表、いない時間を裏という。

裏で、ムフフがあったのか、
誘ったけど断られたのかは含みを持つ。

「裏を明らかにすること」を謎解きという。
謎は興味を引けないと面白くない。

立ち会えていなかった時間は全部裏だ。
それはストーリーに必要でない裏を省略しているか、
必要な裏を隠しているかのどちらかだ。


・最後に全部のピースがはまって終わる

最後の最後まで、いったいこの全体がどういうことだったのか、
明らかになってはならない。
つまり最後まで俯瞰できない。
なぜなら、途中で全体像がわかってしまったら、
その後を見る必要がないからだ。

ラストピースが最後にかちりとはまって、
なるほど全体はこういうことだったのか、
となったとき、
これまでのことが全て腑に落ちる構造になっているのが理想で、
それをオチという。
終わり良ければ全てよし。
オチの落ち方こそが、俯瞰した意味を決める。

また、これを利用して、
一旦全体像をわざと見えるようにしておいて、
最後付近でそれは全く違ってこうだったのだ、
と明らかにするのをどんでん返しという。

ラストピースがはまる直前にひっくり返すという、
逆目である。

そしてその真のラストピースがハマってなるほど、
となるのが上々のどんでん返しだ。



絵にできないこと、絵にないことをあげた。
僕はアートディレクターがとても嫌いである。
このような戦場でぼくは戦っているのに、
これらを理解してないからだ。
(そして指示系統的にこっちより風上にいると時々むかつく)

絵にできてムービーにできないことは、
情報量の多さと、
永遠に眺めていたいもの
(これは一部ムービーでは可能だが)
くらいではないだろうか。

ムービーが絵の完全上位互換とは言わない。
しかし多くの場合たくさんの要素を捌かなくては、
ムービーとして成立しない。
posted by おおおかとしひこ at 07:32| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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