2020年03月25日

100ワニ商売への嫌悪感は、点と線で説明できる

ワニコラボカフェのお粗末さ(予約500円、ぼったくり、ガラ空き)
に加えてゲーム化もするんですって。
どんだけぶら下がっとるんや。

なぜこれに我々の感情は逆撫でされるのか?
ステマやコラボのマズさではないと思う。

時間軸を持つものと、持たないもののズレが引き起こす、
違和感なのではないか?

平たくいうと「キャラは歳を取らない法則」に、
ワニくんは反しているからである。




終盤の怒涛の商品展開のすべては、
ワニくんを「キャラクターグッズ」と捉えている。

大元の漫画を一次メディアとすれば、
書籍化は一次メディアだ。
映画化は二次メディア化といえる。

しかし、
缶バッチ、帽子やパーカーやシャツやトート、
ぬいぐるみやキーホルダーなどのグッズ、
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コラボカフェ、ゲーム化は、
三次メディア化だといえよう。

三次メディアにおけるワニは、
キャラクターである。
キャラクターは歳を取らない。
イコンである。
ドラえもんやルパン三世やガンダムと同じだ。
歳を取らずに、いつまでもニコニコ笑っている。

時間軸の存在しない点である。

一方、
「100日後に死ぬワニ」は、
時間軸の存在した線である。

100日生きて死に、
変化を体験した。(死)
この変化こそが物語であることは、これまでも散々議論してきた。
そして、線は点にならないことも。
点は線にならないこともだ。

つまり一次メディアのワニは線であり、
生から死へと変化する、歳を取るいきものである。

ところが三次メディアのキャラクターとしてのワニは、
点であり、
歳を取らない肖像である。

彼の名前がないこと、
作品タイトルが印象的だったことから、
彼の名前は「100日後に死ぬワニ」だ。

おや。
「ドラえもん」や「ルパン三世」のように、
彼を呼ぶとき、「100日後に死ぬワニ」と、
線が入ってしまっている。
点ではないのだ。

ここに違和感がある。


我々は線を体験した。
ワニは死に、二度と会えない。

ところがグッズの中のワニはニコニコ笑っていて、
歳を取らない永遠の世界に生きている。
ドラえもんやルパン三世のように。
お前死んだんちゃうんかと。

この強烈な違和感の正体が、
「点として扱うべきキャラクターなのに、
名前に線が入ってしまっている」
だと思う。


担当者はそれを感じたのか、
追悼ショップは、
「100ワニ」と略称化することで点に集約しようとした跡がある。
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しかし結局100ワニと略したとしても、
頭の中に「100日後に死ぬワニ」に開いてしまうので、
なんだかモヤモヤし直すわけだ。
「もう死んだのに、
なぜ過去形でなく未来形になっているのか?」と。

我々のいる今の時間軸では、
「死んでから○日経つワニ」
「3/20に死んだワニ」であり、
「連載開始時に100日後に死ぬとされたワニ」
である。
今日が3/25なので、
「3/25から100日後に死ぬワニ」ではない。

線を含むので、
ドラえもんやルパン三世のような、
イコンとしての点になりきれていないのだ。


これがモヤモヤの正体だ。


しかも追悼ショップでは、
天使の羽と輪っかがあることで、
「死後のワニ」にクラスチェンジして、
点としてのキャラクターになったのかと思いきや、
グッズは「生前の、線としてのワニ」でしかない。

このねじれが、
さらにモヤモヤさせるのだ。
「なにお前ニコニコしとんねん。
死んだんちゃうんか」
と思わせるに十分だ。

このねじれを解消するには二通りある。

1. 100ワニは天使のワニのことであり、
今後一切天使ワニしかキャラクターとして認めない。
2. 天使のワニは、なし。生前のワニをキャラクターとする。

2.は、一次メディアの線を台無しにする考え方だ。
だから、ワニは金儲けのために魂を売ったと言われている。

1.は、作者の気持ちが天使ワニを点として提出したのだろう。
しかし有名になったのは線としてのワニであり、
点としての天使ワニではない。

つまり、
これは永遠に答えが出ないモヤモヤなのである。



広告代理店の戦略は、
ワニを点であるキャラクターとしてグッズ展開したかった。
しかし話題性は、線としてのワニであった。

両者の乖離をうまく腑に落とせない人が、
言葉にできず、
電通のステマとか、金儲け主義とか、
とりあえず汚い言葉で否定するわけだ。
しかしほんとうは、このモヤモヤを否定したいだけだと、
僕は考える。


「100日後に死ぬワニ」というタイトルが、
点で終わるTwitterを線に変えて、
だから一種の面白味があった。
点でのネットの付き合いが、線になった面白さだった。

だが、線は点にはならないという、
僕のこれまでの主張が、
点で商売する奴らは線を理解していない、
(たとえば映画ポスターを、
ストーリーの線を示すビジュアルではなく、
主演俳優を並べた点として表現する)
という僕のこれまでの主張が、
図らずも浮き彫りにされたわけだ。


なんとなくこの辺のモヤモヤを「100ワニ」
と言い換えたところまでは合ってた。
しかし線の名前を点の名前に変えるべきであった。
最終回にひっかければ、
たとえば「桜ワニ」とか。

「100日後に死ぬワニ」は、
以後「桜ワニ」と呼ぶことになりました、
と頭で紹介すれば、
桜ワニ追悼グッズがバンバン出ても、
ヘボヘボコラボカフェだったとしても、
シューティングゲームのキャラグラをワニに変えただけのゲームでも、
直後に怒涛の商品化攻勢がステマ的にあったとしても、
これほどまでに強烈な違和感を感じなかったのではないか?

ついでに、
そこまで見据えた戦略で、
以後桜ワニと呼ぶと決めたのなら、
本編の最終回は、
「綺麗な桜を見たら、ワニを思い出してください。」
で締めれば、最高のつなぎになったのでは?

つまり、
マーケティングをやるならば、
点であるキャラクターにワニがなるように、
しておくべきではなかったのか?

それが、タイトルも線で、
ワニ本人も線だったからこそ、
この齟齬が埋まらなかったと僕は考察した。



これらの観点が誰も提出していないので、
書いてみた。

「死んだおじいちゃんの葬式やる前に、
おじいちゃんのニコニコ顔のグッズ配られた感じ」
のモニョる感じを表現したツイートはみたが、
それは、線と点の違いに、
無意識で気づいていると僕は思う。


つまり、
三次メディアはぜんぶグラフィックなんだよ。
一次メディアはムービーなのに。

さて、二次メディア(二次創作の二次)である、
映画化。
これも線でなく点で終わるクソ映画だと想像される。
やれるもんならやってみやがれ。
クソ宣伝野郎ども。
posted by おおおかとしひこ at 22:49| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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