打鍵のリズムが思考のリズムにあってくると、
「、」で休む現象があるような気がする。
口で言う事をまず考えよう。
テープ起こしした経験がある人は、
驚くほど人は「意味のない言葉を発しているか」を、
知っていることと思う。
つまり、
えーと、えっと、あー、これはね、
うん、うんうん、なるほど、あと、で、
逆に、からの、要するに、もっとね、
いや、でも、ううん、ふむ、そういえば、
などなどの意味のないどうでもいい言葉を、
大量に発していることに気づくはずだ。
これはそんなに意味がない言葉である。
間投詞ってこんなんだっけ。
要するに、間を稼いでいるうちに、
人は次の言葉を探している。
じゃあ無言でいいじゃないかと思うが、
実際のところ、口を動かしていないと次に喋りにくくなるので、
アイドリングしている、と言えるかもしれない。
「要するに」は極端な例で、
要するにのあとは要約が来るものだが、
要約をこれからします、という宣言ではなく、
言い換えようとして考えているさま、
でしかないときがまれによくあるよね。
お前要するに、言うてからだいぶ喋っとるやないか、
というのはあくまでツッコミに過ぎず、
実際の会話では、喋りながら考えているものだ。
こうしたアイドリングの為の言葉は、
書き言葉では存在しない。
ちなみに、
「聞いている時はこのアイドリング言葉があったほうがいいが、
読むときはない方がいい」
という経験則が、雑誌や映像の編集で良く知られている。
聞いているときはその言葉があることで、
次に来るまで聞き手が準備できたり、
これから重要な言葉をしゃべるから、
間として機能したりする。
逆に目で見ている時は邪魔だから、
カットしたほうが理屈が浮き上がる。
インタビューの書き取りなどで、それらを実感できるので、
カフェとかで他人のしゃべりを録音して、
文字起こしとかしてみると、良く分る経験が積める。
で、書き言葉のときは、
そうした言葉を削除しながら書いていくものだ。
だから完全にそうしたものは除去されているかというと、
実はそうでもない。
「、」句点にそれが現れるときが、まれによくある。
なんか色々書いて、ちょっとだけ脳を休めて次の言葉を探すとき、
喋っているときなら、
「あー」とか「えー」とか言っていればよいのだが、
書き言葉にはそれはない。
口でなく指でそれをやってしまうのが、
「、」ではないかと僕は思うのだ。
手書きでも「、」を休みの時に入れがちだけど、
タイピングのほうがもっと入れがちだということが、
僕の経験から分かっている。
脚本家の北川悦吏子は「、」の多い脚本で有名だ。
彼女は親指シフターでもある。
何年か前、朝ドラを書いていたとき、
「親指シフトは速いがゆえに休符を入れたくなり、
それが句点で休むことがよくある」
という趣旨の発言をして、
プチ炎上したことがある。
主演の永井芽衣が「脚本の、。は間の指示でもあるから、
脚本の、。をよく覚えて、それを表現するようにしています」
とインタビューで答えていて、
それに対する答えとして北川の発言があった。
プロとしては、それをきちんと除去して、
通りのいいように整えるべきだと思う。
それをそのまま残すのはプロ失格だ。
もちろん、書き言葉では必要ない「、」を入れて間を作り、
その人のためらいや嘘をつく間を作ることなどは、
やるべきことだ。
で、よく僕はこうしたブログを書く時に、
ついつい「、」を使ってしまうなあ、
などと気づいてはいて、
意図的に最後に「、」狩りをすることがよくある。
思考の流れの一拍置くところと、
打鍵の流れが一致してしまうほど、
「、」を入れがちだということが、
最近分かってきたわけだ。
思考の切れ目がどこにあるのかは分らないが、
少なくとも文章というものは、
そのような痕跡を残すべきではない。
ということで、「、」を多用しがちな人は、
比較的速く打てているのではないか。
つまり逆説的に、
思考に打鍵が寄り添っていると、
認めてよいのではないか。
指の流れがなるべく思考に沿うようになると、
こうした弊害も出てくると思う。
2020年03月27日
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