2020年03月28日

大衆は馬鹿か

時々作者の陥る罠だ。

大衆は馬鹿だと思い込んでしまうこと。


何かを書こうと思う人は、
もともとある程度賢い人だ。
馬鹿じゃ書けない。

で、自分で苦労して書こうとすることは、
何か価値のあることだから、
なかなかに難しいことを書きたがる。

馬鹿でも知ってることより、
多少の知性の煌めきを書こうとする。

しかしこれがなかなか理解されない。


Twitter動物園を見ても馬鹿ばっかりだ。
デマに踊らされてトイレットペーパーを買い占め、
アベシネと知性なく連呼し、
K1見に行ったり休校時にスペイン旅行したり、
しょうもないことに炎上する。

だから大衆は馬鹿だと、
つい思ってしまうのも無理もない。


ただし、
大衆は全員は馬鹿ではない。
これだけわかっておくといい。

大衆99人が、
あなたのやろうとすることを理解しない馬鹿だとしても、
1人くらいはわかるだけの知性がある。

まずその1人に向けて、
誠実に表現するとよい。

そして余裕があれば、
その人を含む2人くらいにはわかるように説明しなさい。
さらに余裕があれば、
3人、5人くらいはわかるように書くことだ。

上位3%にわかるようになったら、
表現としては合格だ。

できれば5%かな。


その知的水準を維持していれば、
どこかで「馬鹿でもわかる話」に書き直せることに気づく。

昔からある落語、小説、演劇、
つまりは大衆芸術の名作に触れることで。

なるほど、この作者は、
これだけの工夫を凝らしてまで、
馬鹿にでもわかる話に作り替えているぞ、
と、
その工夫が理解できるようになるのだ。


私たちの仕事は、
相対性理論がわかる人にしかわからない特殊宇宙論ではない。
大衆芸術だ。

大衆は方向性を持たない馬鹿だが、
興味を持ったことには知性を働かせ、
自分の経験したことのアナロジーで理解しようとする。

つまりあなたのするべきことは、
いかに興味を引き、
大衆を上手に誘導するか、ということなのだ。

インパクトから入ったり、
わかりやすいたとえ話から入るのは、
そうした工夫で、
飽きさせない工夫や、複数の視点から考えさせる工夫も、
大衆の理解力がついてこれる範囲を計算できるかだ。


大衆は方向性を持たない馬鹿だが、
方向性を持った大衆は大きな力を持ち、
次第に熱狂をはじめる。
その熱狂は、あなたのストーリーが素晴らしければ歓声をあげ、
ヘボならば大炎上に発展するだろう。

あなたは、大衆を熱狂させるのだ。
それは義務でもあり、結果でもある。


大衆は馬鹿だが馬鹿ではない。
わたしは馬鹿だが馬鹿ではないのと、おなじくらいに。
posted by おおおかとしひこ at 11:12| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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