時々作者の陥る罠だ。
大衆は馬鹿だと思い込んでしまうこと。
何かを書こうと思う人は、
もともとある程度賢い人だ。
馬鹿じゃ書けない。
で、自分で苦労して書こうとすることは、
何か価値のあることだから、
なかなかに難しいことを書きたがる。
馬鹿でも知ってることより、
多少の知性の煌めきを書こうとする。
しかしこれがなかなか理解されない。
Twitter動物園を見ても馬鹿ばっかりだ。
デマに踊らされてトイレットペーパーを買い占め、
アベシネと知性なく連呼し、
K1見に行ったり休校時にスペイン旅行したり、
しょうもないことに炎上する。
だから大衆は馬鹿だと、
つい思ってしまうのも無理もない。
ただし、
大衆は全員は馬鹿ではない。
これだけわかっておくといい。
大衆99人が、
あなたのやろうとすることを理解しない馬鹿だとしても、
1人くらいはわかるだけの知性がある。
まずその1人に向けて、
誠実に表現するとよい。
そして余裕があれば、
その人を含む2人くらいにはわかるように説明しなさい。
さらに余裕があれば、
3人、5人くらいはわかるように書くことだ。
上位3%にわかるようになったら、
表現としては合格だ。
できれば5%かな。
その知的水準を維持していれば、
どこかで「馬鹿でもわかる話」に書き直せることに気づく。
昔からある落語、小説、演劇、
つまりは大衆芸術の名作に触れることで。
なるほど、この作者は、
これだけの工夫を凝らしてまで、
馬鹿にでもわかる話に作り替えているぞ、
と、
その工夫が理解できるようになるのだ。
私たちの仕事は、
相対性理論がわかる人にしかわからない特殊宇宙論ではない。
大衆芸術だ。
大衆は方向性を持たない馬鹿だが、
興味を持ったことには知性を働かせ、
自分の経験したことのアナロジーで理解しようとする。
つまりあなたのするべきことは、
いかに興味を引き、
大衆を上手に誘導するか、ということなのだ。
インパクトから入ったり、
わかりやすいたとえ話から入るのは、
そうした工夫で、
飽きさせない工夫や、複数の視点から考えさせる工夫も、
大衆の理解力がついてこれる範囲を計算できるかだ。
大衆は方向性を持たない馬鹿だが、
方向性を持った大衆は大きな力を持ち、
次第に熱狂をはじめる。
その熱狂は、あなたのストーリーが素晴らしければ歓声をあげ、
ヘボならば大炎上に発展するだろう。
あなたは、大衆を熱狂させるのだ。
それは義務でもあり、結果でもある。
大衆は馬鹿だが馬鹿ではない。
わたしは馬鹿だが馬鹿ではないのと、おなじくらいに。
2020年03月28日
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