2020年03月29日

エモい場面はストーリーではない

エモい場面はみんな大好き。
そういう場面を見ると、映画っていいなあ、
ストーリーっていいなあ、って思うかも知れない。

真似して書いてみても、エモい場面は書けても、
それ以上が書けなくて困ることだろう。
なぜか。


エモい場面は、エモい場面単体として存在していないからだ。

ツイッターやインスタの写真だけで、
エモさを表現できるゆえに、
「エモさは点」だと誤解しているのである。

実は、
良い写真というのは線だ。

一瞬を切り取っているから点だろ、
と思うのは写真の素人である。

良い写真というのは、
「点を切り取っているのに前後が想像できて、
そのピークの一瞬を保存したもの」
だと僕は考える。

たとえば、
優勝した瞬間の写真、
片思いの子がカメラ目線になったときの写真、
鳥が川から魚を獲った瞬間の写真、
NYがロックダウンした写真、
二人でデートしたときの写真、
飲み会の写真、
桜が人知れず散っていく写真、
などなど。

それらは、前後のストーリーが一枚絵に入っている。
だから良いのだ。
そして、そのストーリーが絵から想像できて、
構図も切り取った瞬間も決まっていて、
光線や影や色使いもいいやつが、
いい写真の必要条件だと僕は思う。

つまり、
写真とは、点で線を表現するメディアである。


エモい写真について考えよう。
上で上げた例はどれもエモいうちに入るかな。
こないだTwitterで見た、
「花火を見上げる5人のシルエットがエモいと思って撮ったら、
給水塔が5個並んでるだけでした」
というのは面白かった。

エモいは、シチュエーションの素敵さや、
感情が震える前後のストーリーがあると思う。



さて、本題。

つまり、その前後の線まで含んで写真というのなら、
その前後をストーリーにしないといけないのである。

「花火を見上げる5人のシルエット」を例にすると、
その5人の仲良しストーリー、
喧嘩したり仲直りしたストーリー、
一回転校して離れ離れになったが、
また会おうぜと約束して、
夏祭りに集まったストーリー、
それらがオリジナリティがあり、
ものすごく面白い時に限り、
「花火を見上げる5人のシルエット」が、エモくなるのである。

「優勝した瞬間の写真」がエモいなら、
どうやってここまでたどり着いたかという、
感情移入できる、物凄く面白い話が必要なのだ。

こうなると、
エモい写真などガワにすぎず、
ストーリーを本体にしなければならない、
ということが分かってくると思う。


つまり、
エモい場面や写真は、
観客にとっては入り口だが、
作者にとっては出口だ。

全部出来た上での吐き出し口を、
エモい感じに演出しているにすぎない。


この理解をしていないと、
「エモい場面はいっぱい思いつくんだけど、
ストーリーが思いつかないよう」
と悩むことになる。
悩む場所を間違えているのだ。

悩むべき場所とは、
事件と解決の連鎖反応であり、
人物同士のコンフリクトであり、
人物の動機に感情移入させることであり、
立体的で魅力ある人物像を造形することであり、
ベタを避けてひねりを入れることであり、
新しいテーマを見つけることである。


それらのトータルの出口として、
絵になるエモい場面を用意する。

そうしてはじめて、
「いい絵がこれまでのストーリーを象徴する」
という、名画の条件になり、
「エモい」という感想になるのである。


まあ、まずはエモい場面を100個考えなさい。
それがヤマになる、
ショートストーリー100本作ってみれば、
原理が理解できるだろう。
posted by おおおかとしひこ at 11:18| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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