こういうものが人間の遺伝子に入ってるんだと思う。
新しい場所へ行くと、興奮する。
新規性に好奇心が刺激されるわけだ。
しかし何が起こるか分からない不安や恐怖もある。
あとはメリットデメリットもある。
メリットのない不安な場所へは人は行かない。
つまり、
何かあることを求めて、
人は新しい場所へ行く。
そのうち、
期待が明確になっているものがストーリーで、
ふわふわしたものが現実、だと言えないだろうか?
たとえば、
出会いを求めてクラブに行ったり、
何かありそうだと東京へ出てきたり、
一通り飲んでよし次へ行こうとなったり、
知らない駅で降りたりしてみるのは、
現実でもよくあることだろう。
それは、ストーリーではない。
偶然の何か待ちであり、
その偶然が何か明確になっているわけではない。
「何かありそうだ」という不定の期待だと言えるだろう。
一方、
ストーリーでは、目的が明確にある。
あるクラブへ訪れるのは、
金曜末に出てくる○○に会うためであるとか、
東京へ出るのはある出版社に原稿を持ち込むためだとか、
次の飲み屋へ行くのは、ホテルが近いからだとか、
知らない駅で降りるのは、その先に目的地があるときだ。
現実では偶然の何かを待つことがあったとしても、
ストーリーの中ではそうではない。
つまり、
ストーリーでは必然が支配している。
何かをしようとして、何かをするのであり、
何か偶然を待つよりも、それは確度が高いことであるべきだ。
もっとも、
それがストーリーの最初の方であれば、
偶然待ちもありえる。
「クラブで偶然見た光景が…」とか、
「東京へ出た初めての日に出会った…」とか、
「二軒目の店で偶然強盗が…」とか、
「知らない駅で降りたら、今日はマラソンの日で…」とかは、
導入部分に使える。
つまり、導入でよくあるのは偶然の出会いだ。
途中にはなかなかない。
あったらご都合主義になるだろう。
つまり、偶然は最初だけで、
あとは必然なのが、ストーリーの基本だ。
つまり、
「新しいところへ行く面白さ」は、
必然でなければならない。
現実の、「何が起こるか分からない偶然を楽しみにする」
とは訳が違うということ。
そこで何が待っているのかも必然で、
そこに何を求めていくかも必然で、
つまり、読めなければならない。
しかし普段といる場所が違うため、
普段通りにいかない読めない部分が出てくる。
それが、その新しいところ特有の何かになっていると、
よくできた必然になるだろう。
新しい場所へ行くと興奮する。
それは、作者だけが興奮してないように、
注意深く観察しよう。
作者は現実のように興奮しているが、
観客はストーリーに興奮しなければならない、
というズレがあると、
滑るぞ。
2020年03月30日
この記事へのコメント
コメントを書く