問題のセットアップ、
その解決部分は、
慣れれば誰にでも出来る。
それをドラマチックに出来るかどうかはある種の才能だけど、
理屈が通っていればストーリーにはなる。
難しいのは展開部である。
とてもよくある悩みは、
一幕のセットアップ、第一ターニングポイントまで書けたが、
そこから何をしていいか分からなくなるパターンだ。
あるいはその先計画していたことは書けても、
ふと何をしていいか分からなくなり、
困ってしまうことだ。
あることがありました。
…時間経過…
あることがありました。
…時間経過…
あることがありました。
…時間経過…
解決しました。
はドラマではない。
あることがあり、それゆえ次のことになり、
それゆえこうしたのだが、それゆえ解決した。
のように、すべてのつながりがドラマである。
その「それゆえ」を上手に繋げるのを、
プロット(計画)というのだ。
計画そのものが杜撰な場合も多い。
こういうことになって、
最後こうなるから、
間はこういうことになるはず、
と理屈で考えただけで、
実際に頭からそれをみていくと、
その途中の感じには、
気持ち的にも理屈的にもならない、
ということがよくある。
で、その時の打開法の最悪の手は、
「待つ」ことだと思う。
現実ではよくある。
スパゲッティ状態の八方塞がりのとき、
時間が解決してしまったとか、
偶然解決のヒントが通り掛かったとか。
…時間経過…
がとても良くあるかもしれない。
その経験があればあるほど、
「人生は待てば解決することもあるのだ」
と人生観を持ってしまうことだろう。
だが、それと物語は異なる形式であることに気づきたまえ。
待つことが人事を尽くした上での選択肢ならばそうだけど、
しかしたいていは次の最善手を考える重荷から、
作者が逃げるために、
「待つ」を選択肢として選びがちだ、
という警告が本題である。
で、
「人生には待つことで解決することもあるのだよ」
なんて僧侶気取りで理屈をつけることが、
一番やってはいけないことだ。
これは認知的不協和の解消現象
(心理的プレッシャーがかかったとき、
人は理屈をつけてやらない方向に自分を誘導する。
本音の感情を、理屈で後付けで補強する)
であることを、
強く自覚されたい。
今自分は、難しい展開から逃げている。
それを人生の達人のようなふりで、
誤魔化そうとしているのだと。
(引越しの片付けをしていて、漫画を全巻読んでしまう現象)
日本映画に不必要な間が多いのは、
こうした作者の逃げのせいではないだろうか?
行動し、説得し、議論し、
なんらかのオペレーションを世界(物理世界や人間関係)
に施して変えていこうとすることを見せる、
三人称芝居において、
以心伝心や文化的高尚さの振りをして、
そのオペレーションの責任や勇気やナイスアイデアから、
逃げた結果なのではないか?
それは日本人の、
「和を尊ぶ」の裏返しにある、
「トラブルを避けて、出来ればなあなあで済ませたい」
という弱い本音なのではないか?
だとしたら、
その本音を暴くことをすることが、
作家たるもののするべきことではないか?
関西人がよくやる女の口説き方があって、
二人きりで抱きしめたりキスした後に、
「な? な? な?」で押し切る方法がある。
何も言ってない、責任の所在を曖昧にし、
なんとなく空気に任せた、卑怯な方法だと思う。
「それでも好きだから許した」女たちはたくさんいて、
でもそういう男たちは「わかるやろ」と去っていく。
「なにを」を一生言わない、
軟弱な男たちである。
現実世界でも、政治の腹芸というのはこうしたことで、
京都弁はそれを最も優美に進化させたものだ。
(「お宅の息子さん、ピアノ上手にならはりましたなあ」
訳: 毎日毎日下手くそなピアノの音が丸聞こえでうるさいんじゃ)
で、これが陰湿なドラマならいいけれど、
僕は明快なドラマにするのなら、
明快にするべきだと思う。
だが、その省略されてることをうまくやるやり方が思いつかない、
逃げゆえに、
「…」や省略や待つことでなんとかしがち、
ということを言おうとしている。
テクニックとしてはあるよ。
A「」
B「」
A「」
B「」とリズムを作って、次Aの番に、
A「…」とあえて無言にすることで、
Bが焦って本音を先に言ってしまうとか、
そのような小さい半径では使えるテクニックである。
しかし、
大きなプロットラインで、
逃げた末、待って解決するというのは、悪手だ、
というのが本題だ。
作者としては「わかってくれる」「わかってくれよ」という思いだが、
僕の読解力は、「お前、逃げただろ」までわかってしまう。
「リアルではよくあるよね」を、大体そいつは言い訳にする。
私たちはリアルを見に来ているのではない。
劇という、圧縮された人生の別名の、ドラマチックな何かを見に来て、
人生を別の角度から見に来ているのだ。
したがって、「待つ」は、
ただ観客が退屈なだけの時間に、99%の確率でなってしまう。
「待つ」が劇の上で効果的なのは、
待つことでハラハラして間違ったことをしてしまったり、
待つことでイライラして喧嘩したり、
「待つことによる新しい何かがはじまるとき」
のみだということを、覚えておこう。
無言を貫いて相手に言わせるなんて、
人生でも、劇の上でも、最低なやつさ。
2020年03月31日
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