コロナ禍によってリモートを余儀なくされた人たちが、
生きる実感を失いつつあると思う。
監禁は(軟禁も含めて)人を削る手段ということがわかる。
隠岐流しは有効なんだなあ。
最初はリモートは家にいれて最高と思われても、
続けば続くほど精神が削られていくことがわかるだろう。
デジタルはVRやARも含め、バーチャルな世界でなんとかすることで発展してきた。
それは感覚の拡張としては面白かったし、人類の進歩に寄与したが、
身体をもったアナログ世界を代替するには至らなかった。
音楽の話をする。
電気グルーヴや小室のころ。
テクノが流行ったころ。
僕の先輩はずっとMacでデジタルビートのループをかけていて、
今でいう「作業BGM」を自作していた。
それでフォトショやイラレを何時間も触っていた。
MacBookもiMacもない、銀色になる前の、クアドラとかの頃だ。
僕はそれがとても怖かったことを覚えている。
自分がアナログからデジタルに「解体」されてしまうことを感じた。
CDの原理は、アナログ波をフーリエ変換によってデジタイズすることだ。
十分な精度があればアナログ波とデジタル波は区別がつかないとされてきたが、
僕にはまだそうは思えていない。
結果としての波に違いが見つからないのかも知れないが、
そこへ至る動線が、随分変わってしまったからだ。
レコードショップに並んだジャケットからじっくり選んで、
傷をつかないように大切に出して、
レコードプレイヤーに針を落として、
ノイズの中から秩序を見つけ、
終わったらまた大切にしまい、
棚の中のコレクションを眺めては並び替える行為。
それと、
適当にYouTubeで流して、
気に入れば課金してダウンロードするが、
まあダウンロードするほどでもないか、
HDDのどこにしまったかどうせ分からなくなるし、
また聴きたかったら検索しよ、
という感覚の差。
この、
何かを大切にする行為と、聞き捨てする行為が、
アナログ波とデジタル波の物理的違いよりも大きな気がする。
レコードプレイヤーにセットするのは面倒だから、
「今から聞く」という体勢を作らなくてはならない。
YouTubeは適当に流して、適当にクリックすれば良い。
つまり、こちらの意識の集中や責任の取り方が、
全然変わってしまった。
先輩のテクノに、僕はおそらくこれを感じたのだ。
「そんなに簡単になってしまったら、
何か大切なことが置き去りにされてしまう」
という恐怖。
単純に言えば、「大切に扱う」ことだったのかもしれない。
デジタルは無限コピペできる。
アナログはオリジナルは一つしかないし、
きちんと管理しないと劣化し、二度と戻らない。
この「ご大切」こそが「生きている」ってことなのではないか。
ちなみにlove(男女のそれではなく、隣人や神へのそれ)に該当する日本語がなく、
明治のえらいひとは「ご大切」と訳したらしい。
今では定着していないが、わかりやすい言葉だ。
(和語による訳は、訳語っぽくなくて定着しづらいのかもね。
漢字熟語でないと新しくてありがたみがないと思われたのだろう。
今ではそれがカタカナ語に変わったのかね)
話を縮めれば、
デジタルには愛がなくてアナログにはある、
みたいなことになってしまう。
この「縮めた時」に失われるものが、
アナログの生きている感覚なのだと、
僕は考えている。
リモートに話を戻せば、
わざわざ会いに行き、無駄話をし、
どうでもいいことで笑ったり怒ったり、
会えてよかったや、会えずに悔しいみたいなことが、
人間には必要で、
そのドタバタが失われたリモートには、
人間をご大切にする、
という感覚が失われたような気がする。
勿論、コロナ禍の下だからみんな耐えてるけれど、
これが合理として普通の状態でも強制されたら、
ディストピアになるだろう。
米軍がリモートコントロールでの空爆をやったが、
家から出社し、
まるでゲームのような画面で爆撃して、
家に帰って団欒して、
という生活に、パイロットは精神を病むらしい。
わざわざ現場に出かけ、実際に爆撃機に乗って、
操縦して人を殺して帰投する感覚とは、
また違う闇がそこにある。
デジタルは、便利にはしたが、
まだ人を幸せにはしていないと思う。
それはなんだろうとずっと考えているのだが、
生きている感覚みたいなことかもしれない。
じゃあそれは何、と新しく問わなきゃいけないけど。
「青空」を唄ったブルーハーツのヒロトとマーシーはブルーハーツ解散後ハイロウズというバンドを組んだことは知られていますが、僕はこのバンドも引き続きファンで新譜を購入してはよくライブに通っていました。
そして、彼等の新譜発売は必ず同じアルバムをCDとレコードの両方の音源で発売されていたのです。
もちろん、それはヒロトとマーシーの意向です。
僕は必ず両方の音源で買っていました。
当初、CDは視聴用、レコードは保存用で購入していましたが、結果、視聴も保存もレコードばかりでCDは棚て埃を被っていました(笑)
こういう感覚を言葉にすることはとても大事で、
なぜなら我々脚本家的には、
「それをネタにした何かを作れないだろうか?」
というところに行くわけですね。
ただでさえインスタントに済ませようとしているところへ、
泥臭いアナログ感覚で行動する映画は、
だからいつまでもアナログだと思われます。
スマホの電波の届かない場所が選ばれるのも、
そうした感覚の反映かもしれません。
しかしやっぱりブルーハーツ時代のほうがいいんだよなあ…。
青空はいまでもカラオケで歌います。
医療分野でX線CTやMRIで体内を撮影して手術計画に役立てる研究で、かつては臓器をCGモデルにしてVR手術シミュレーションしていたのが、いまは3Dプリンタで本物の臓器と同じ弾力の模型を出力して使っており、visible(見える)からtangible(触れる)に移行したと聞きました。
映画は秒24コマですが、
最近のゲームでは60まで上がっていたりします。
60で実写撮影して60再生すると、
なんだかものすごく「生っぽい」んです。
雰囲気やニュアンスが捨てられていると感じます。
情報量としては増えているはずなのに。
余白があって、それに補完している感覚が「見ている」ことなのかもしれません。
3Dプリンタはそんなものにも使われてるのか。
手術は視覚より触覚のファクターが大きいでしょう。
ツボを学ぶために人体模型に触るのに似てますね。
我々の「感覚」というのは中々に捉え難く、
単なるスペック増加だけでない何かがあるのは確かなようです。
VRは画期的ですが、全てではないのでしょう。