僕が追い求めるものと逆の映画を見て、
自分の位置を確かめることはよくやる。
その中でもコーエンは毎回の合わなさぶりに鳥肌が立つ。
関西人が納豆を勧められた感じか。
以下ネタバレ。
「ファーゴ」のときも、
「ビッグリボウスキ」のときも、
この映画でも思ったけれど、
シチュエーションやキャラクターや、
あるシーンは身震いするほどいいのに、
全体として見たとき、なんやこれ、
というパターンが多いように思う。
この映画でも、
悪役が最高によいし、
モーテルでの2回のチェイスは最高に良かった。
その前の発信器の音の間隔だけで部屋を特定するところも良かった。
コインのエピソードやセルフ手術(その前に車爆発させて医療器具を盗む手口)、
何よりビジュアルと圧搾酸素?を使ったエアガンという、
前代未聞の武器は面白かった。鍵をスポーンと抜く怖さとかね。
現金盗んだやつがあっさり死ぬのも面白かったし、
ラストの交差点事故もびっくりした。
雰囲気はいいし、赤を抑えた乾いた色調や、
極力音を使わない静かな空間も良い。
だけど、「で、結局なんやねん」で、
毎度の突き放される気がする。
原題は「no country for old man」
であるところから、
「最近の若者についていけない老人たちの嘆き、
または引退」がメインテーマだと想像される。
しかしそれはトミーリージョーンズ演じる保安官の、
メインドラマにはなっていない。
メインは殺人鬼vs逃げる男のチェイスだ。
それが一体なんだったのかを見つけるのが文学におけるテーマだと思うが、
それが「わからんから、引退するわ」
というオチでしかないと、
つまり放り投げエンドにしか見えなかったのが、
作者としての責任放棄だと感じた。
もちろん、
「それがアメリカなのさ」と言われればそれまでだが、
じゃあお前はどうしたいんや、
が見えてこない。引退でそのままボケて終わるつもりかと。
どうしたいというのがないから、
ただ淡々と描いて、
「こういうことがあった」と記録するだけで終わるのかも知れない。
それはただの記録でしかなく、
文学へ昇華していないと僕は考える。
まだ事実なら面白い
(似たような感じに「ゾディアック」がある)が、
あの殺人鬼もモーテルのチェイスも所詮架空である。
その架空を持って何かを示すのがフィクションだが、
このフィクションはそれを事実の記録レベルに留めている。
つまり、
文学的消化(=それが一体なんの意味があるのか?)
がないように見える。
ネットで知ったのだが、
保安官が殺人現場に二度目に入ったとき、
その部屋の中に殺人鬼がまだいて、
保安官はそれに気づいたのだが、
(自分が老いて勝てないと分かり恐怖にとらわれ)
気づかないフリをしてやり過ごした、
というシーンがあったらしい。
だからそのあと猫を飼ってる古い友人のところへ行き、
引退へのターニングポイントとなったのだと。
で、見返して見たのだが、
「その部屋の中に殺人鬼がまだいた」はほんとうだった
(モニタが暗すぎて気づかんかった)が、
とくにそのあと逃げられたようにしか見えなかった。
(換気口を外してそこから逃げた?)
バスルームを調べる時間をかけるフリをして、
殺人鬼に逃げる時間を与えたようには見えない。
なので、その説はここで否定しておく。
いや、仮にそうだとしても、
「日々老いを感じていた保安官が、
その事件で決定的に引退を決意する」
なら分かるが、最初からそのように描かれているわけでもない。
「保安官は引退するのか?」は、
観客のセンタークエスチョンではないからだ。
(彼のセンタークエスチョンかも知れないが)
つまり、
登場人物の中に入って楽しむことが、
この保安官に関しては全くできない。
金を得て逃げる男と、
奇妙だが筋の通る頭のいい殺人鬼には、
心の中に入って楽しむことが出来る。
(これを感情移入というかどうかは別として、
「彼の目からこの世界を見ることが出来る」
ことはたしかだ)
単純な追う追われるの話だしね。
しかし、保安官についてのドラマ(焦点や目的や私的なこと)
がないので、
引退したからなんやねん、
と思ってしまうわけだ。
この腑に落ちなさが、
この映画の不可解な印象として残るわけだ。
アカデミーに絡む意味がまったく分からない。
そのときのアメリカ社会風刺だったか、
この年は不作だったのだろう。
いわゆるベタなハリウッドに比べて、
「俺はわかってるぜ」感が好きな人が選びがち、
ということまでは理解したが、
じゃあ何をわかっているのだろう?
僕にはわからなかった。
「引退する話、世界から拒絶されて世界の一部になることを受け入れる話」
に、是非とも感情移入したかったというのに、
それが出来ていない、
というのが僕がわかったことだ。
いまだに、コーエンの印象(全部見ていない)は、
「パーツパーツは天才的に面白いのに、
全部繋げてみると何も意味していない」だ。
これはいいぞ、というコーエン映画があれば、
お勧めいただきたい。
僕は意味こそが一番大事なことだと思っている。
パーツは意味のためにあり、その秩序こそが脚本だと、
考えている。
そのよくできた一本の線を繋ぐことだと。
もっとも、コーエンのテーマが、
「人生とは、
パーツパーツは天才的に面白いのに、
全部繋げてみると何も意味していないものだ」
の可能性もある。
2020年04月05日
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