前記事の続き。現実とドラマの様式美の違いをさらに考える。
安倍総理の緊急事態宣言は、
きわめて理性に訴えるものであった。
つまり大人が最低一ヶ月間理性を保って行動することを、
喚起したものであった。
映画は違う。
僕が前記事で書いた原稿は、
心が昂り、勇気が湧いて来て、
人類の使命という厳粛な気持ちになるように書いたつもりだ。
つまり、感情に訴えたのである。
極論すれば、
現実は理性、映画は感情に訴えるわけだ。
この違いは、スパンの違いだと考えられる。
現実は一ヶ月(や下手したら年単位)影響を与える必要があり、
映画は今すぐ影響を与え、このシーンや次のシーン、
つまり分単位、秒単位で感情を昂らせないといけない。
一ヶ月人を動かすには理性、
数秒後に人を動かすには感情、
その違いが原稿の差に出たように思う。
つまり、
ドラマとは感情である。
いや、分かっていたことではあるはずで、
脚本とは感情曲線だとかなんとか言っていたはずだ。
しかし、演説という台詞は、感情にこなければ意味がない、
というところまで意識していただろうか?
逆に、
あらゆることを、感情が揺れ動くように、
書いていただろうか?
うまく行ってないところは、
感情が揺れないから、うまく行かないのではないか?
逆に、脚本とは、
数秒先の感情をコントロールするべきなのだ。
映画とは、
理性で動く現実を忘れさせて、
いっときの感情に溺れさせることである、
と定義してもいいだろう。
あ。ヒトラーの演説が、そうだったね。
「インディペンデンスデイ」の大統領の演説は、
とても感動するシーンだが、
これはヒトラーの演説のやり方に似ているのかも知れない。
「シンゴジラ」の自衛隊の演説は、
リアルだがドラマチックではないと僕は感じた。
日本人のドラマチックは、このレベルまでしかいかないのか、
とがっかりした。
(あるいは、実写のドラマチックはアニメにしかないのかとも絶望した)
リアルという理性が、感情で振り切れてないと、
今なら批判が出来ると思う。
映画はセックスである。
理性を飛ばすほどの感情で、振り回すのだ。
覚めさせてはいけない。
現実は逆で、感情によるパニックを、理性で抑えるのである。
だから映画は、暗闇の中のセックスに似ている。最初から卑猥なのである。
2020年04月09日
この記事へのコメント
コメントを書く