2020年04月21日

劇的な要素とリアルな要素

名画劇場の真っ最中だけど、
二点、リアルと劇の要素が大きく違うなあと思って。


こういうツイートを見た。

>風のハルキゲニア
>これまで読んできたパンデミックSFは、だいたい致死率が高くて文明が崩壊するパターンが多くて、
>こんなふうに文明が保たれたまま真綿で首を絞められるようにじわじわと文化が死んでいくのは読んだことがないと思う。そのへんが想像力の限界かな。

リアルは、「真綿で首を締める」ということの発見だ。
たとえばミヤイリガイの根絶への努力はwikiの名記事のひとつ
(物凄く面白いのでオススメ)だが、
これだって真綿で首を締めるような、
根気だけでやった仕事の記録である。

一方、劇はこれでは退屈する。
5分も似たようなことをやっていては退屈する。
逆に私たちは、現実が退屈だから刺激をもとめて映画を見たり物語をみる。
劇的であるとは、ダイナミックであったり、
刺激的であることだ。

つまり、大抵のパンデミック映画では、
致死率は劇的で、
出来れば肌に気持ち悪いブツブツが広がったり、
血を激しく吐いたり、
目が真っ赤になったりといった、
ダイナミックで刺激的な要素が求められている。

リアルが静かな恋だとしても、
劇の上の恋物語はもっともドラマチックであらねばならない。
真綿で首を締めるような、
静謐で展開が淡々としているものは、
刺激物として不十分なのだ。

勿論、
その逆張りとしての、
静謐で淡々とした映画はある。
たとえば「ガタカ」「月に囚われた男」のような、
未来SFにはそうしたものも多い。

しかし現代を舞台にしたものでは、
真綿で首を締めるのは、
展開は遅く、劇として楽しむには物足りないだろう。
(SFではそれが成立するのは、
「現代と違う価値観の世界」が容認されるからだ)

ということで、
大概のパンデミック映画では、
致死率が高い、この世で最も恐ろしいウィルスと、
人類が、存亡をかけて、
わずか24時間の間に勝利しなければならない、
何人も死ぬ命がけの戦いをするのだ。

この例は、ドラマチック要素盛り盛りにわざとしてみた。

パンデミックがリアルでない世界線では、
これくらいしないと、
隕石落下や宇宙人襲来や銀河戦争などに、
刺激として足りないからね。


しかし我々は、
このパンデミックを経験してしまったので、
疫病がどうやって広まるのか、
医療体制と検疫体制について、
現場と政治の足並みが揃わない初期対応、
医療的滅亡と経済的滅亡の綱引き、
科学的真実よりも政治経済が優先されがちなこと、
隣の惨状を見てようやくウチもヤバイぞと気づく遅延、
緊急事態宣言はヒロイズムでもヒューマニズムでもなく、
さまざまな利得団体の調整の結果、
などについて、
リアルな知見を得た。

想像力が追いつけるようになったわけだ。

想像力の限界は作り手側にもあるが、
それを受け入れる受け手の側にもある。
万が一一人の作家によって、
今起こっていることが書かれたとしても、
リアルじゃないよと一笑に付されたことであろう。
もっと刺激的な面白くてドラマチックなストーリーを書け、
と要求されるに違いない。

ここまで書いて思い出したのだが、
実はあったわ、そういう静謐で淡々としたパンデミック映画。
ナイトシャマランの「ハプニング」である。

これは植物が毒を出し始めるというストーリーであった。
この映画の弱点は落ちにある。
これは非難するべき点なのでネタバレすると、
「ものごとは解決せず突然終結する」で終わるのだ。
自然現象が収まった、なぜか、というエンドで、
物凄く腑に落ちない。

つまり、劇的なストーリーとは、
これまでの頑張りが功を奏して、
一見不可能だと思えた問題に、
一本の解決する線が見えて、
最大のリスクをかけた一世一代の大勝負で、
勝利して終わるべきなのである。

それがまるで欠けているから、とても不満に思う。

ところがリアルでは、
このコロナは夏ごろ一旦温度と湿度で弱体化すると予測されている。
自然消滅すると。(次の冬また波が来ることも予測されている)

そうなったとしたら、
やっぱり肩透かしなのではないかなあ。
これまでの頑張りはなんだったんだ、
という肩透かしだろうね、映画なら。
そして「ハプニング」はそういうラストなんだよね。
だから大いに不満が残る。


つまり、劇的とは、
刺激的で、問題が納得いくように解決することであると、
これらのリアルな例から学ぶことができるわけだ。

そうじゃない物語は、物語として面白くないだろう。



二つ目のネタは、
このコロナ騒ぎの原因は、中国とWHOである、
とトランプが明言したことだ。
オーストラリアは親韓から脱して、アメリカの側につき、
中国とWHOを非難しているという。
また、親中国のドイツでも、政府は明言しないが、
大衆紙は中国とWHOを非難し始めている。

つまり、世界の趨勢は、中国とWHOを「わるもの」に仕立て上げている。

これは、リアルな世界に、劇の手法を盛り込む方法だ。

つまり、
世界の外にわるものが来れば、
世界の中は混乱や利害関係を超えて、
一致団結しやすいのである。

サイヤ人が来たらピッコロと悟空は共闘するのだ。

逆に、国内の混乱を纏めるには、
国外に敵をつくることである。

これはアメリカ政治の常套だ。
対ビンラディン戦もそうだったし、
中東戦は聖地イスラエルを守るために敵を作ったし、
その前のベトナム戦争は共産主義が敵だった。
内政の混乱(不景気や内紛)があると、
敵を作り戦争をする、
というのが、近代の人類におけるやり方である。
ヒトラーはそもそも悪役ユダヤ人を狩るヒーローだった。

つまり、
物語的な、
「敵が外から攻めてきた。
俺たちは喧嘩してる場合じゃない、
一致団結して、あいつをやっつけろ!」
というのは、
物語的な魅力、
もっというと、
悪魔的な魅力がある。

ただでさえ、習近平やテドロスは、
既に世界中の憎悪を集めている。

この「敵」へ我々の攻撃の槍が集中するという、
劇の効果がとても強い。

なんなら、ギロチンなどの公開処刑になると、
世界は盛り上がるに違いない。
とても物語的だからね。
(人権思想というものは、世界を物語的魅力で解釈しがちなことに対しての、
カウンターカルチャーなわけである)


物語のこうした麻薬的な魅力を使った例は、
以前にもあげた、大塚家具の跡取り騒動でも指摘した。
「創業者の古臭い父vs近代経済を学んだ美人娘」
の構図は、実態以上に物語性が強かった。
物語ではこうしたとき、
旧弊じみた父は破れ、近代的な美人娘の勝利となるのだが、
リアルの結果は逆であることは、記憶に新しい。

つまり、
現実は物語ではない。


この一文にまとめれば、
わかっていることだけれど、
それをきちんと評価して、
現実と物語の差を頭の中で腑分けできるかというと、
ほとんどの人はそうではないということだ。

プロポーズがドラマチックになりがちなのも、
物語の麻薬を借りるからだろう。
葬式や結婚式のような儀式があるのも、
物語の麻薬を借りるからだろう。

それらを、
我々物語作家は、
分離して楽しめるかということだ。



パンデミック映画は物語であり、現実ではない。
中国WHO非難は、現実だが、物語化しはじめている。

この二つの例を考察することは、
今リアルなうちにやっておくべきことだ。
posted by おおおかとしひこ at 14:36| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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