案外これは難しい。
主観的でしかない感想を、客観的な言葉で書くことになるからだ。
主観というものは、どういうものであってもいい。
それは自由であり、他人の制御が及ぶべきところではない。
だから、どういう感想が世の中にあってもいいのだ。
妥当とか妥当でないとかはない。
正しいとか正しくないとかもない。
たとえ誤解によって生まれた感想があってもいいのだ。
誤解という主観だからね。
ただ、感想を言葉として書き記すときに、
それは正しく書くべきである。
これも、妥当な感想とか妥当でない感想があるわけではない。
正しい感想も正しくない感想もない。
正しく書かれた感想というのは、
「あなたの主観を歪みなく書いているか」
ということだけが大事だ。
書かれたことがあなたの主観を反映していないだけでなく、
書かれた言葉が足りないゆえに、主観が歪んで伝わったり、
間違った言葉を書いたがために、主観が歪んでしまったり、
書きすぎたがために、主観が歪んでしまったりするものは、
正しい感想ではない。
あなたの思ったことに因果関係がなくても構わない。
しかし、因果関係があることをないように書いてはいけない。
あなたの思ったことに根拠があるならば、それは正しく書かれるべきである。
つまり、あなたの主観を、正しく客観的に表現できていない限り、
それは正しい(言葉で書かれた)感想ではない。
実のところ、これを正しく書くことは、かなり難易度が高い。
言葉を正しく使えるかどうか、
書かれた言葉があなたの主観の相似形になっているか、
歪みがないのか、
客観的に主観を見つめることが必要だからだ。
映画ノートをつくることは、
この訓練のもっとも効果的な方法だ。
何年か前の感想を読めば、
その時にどれだけあなたが客観的に正しくあなたの主観を書いていたか、
チェックすることが可能だろう。
あなたはどれだけ自分の主観を客観的に書けるのか、
という訓練なのだ。
さて。
感想と批評はまた異なる。
批評は感想をベースの感情としている事は、
人間が感情的な生き物であり、
物語が感情の産物であることから、
完全な分離は出来ないことは明らかだ。
しかし、
主観を客観的にみる訓練ができていれば、
どこからが主観で、どこからは主観でない、
ということが判断できる。
主観でない部分とは、
あなたの中にないものから成り立つ。
たとえば作者の経験や主張や分析であったりとか、
過去の名作との関係性とか、
あなたの主観が見逃したり誤解していた、
その映画の中にあったシーンとかだ。
それらを正しく理解して、
あなたの主観を分離できたものが、
批評というべきものであると考える。
感想を言い合って、喧嘩することはレベルが低い。
文化的ではない。
(勿論、主観的なふりをして喧嘩する娯楽も世の中には存在するから、
全否定はしない)
文化的とは、客観的な批評に基づいて、
これは良いとか、これは悪いとか、
こうすれば良くなったのかも、とか、
これとこれには類似性があるとか、
これとこれは真反対の構造であるとか、
これとこれは似ているが、これのほうが優れているとか、
そのようなことについて、
書くことである。
だから愛すべきとか、憎みにくいとか、
称賛の殿堂に入れるべきとか、
憎むべきであるとか、
人類史から消去するべきであるとか、
そのようなことを結論づけるべきだ。
主観的感想と、客観的批評は、
ときに分離できない考え方になる。
主観を通すために、
客観的統計結果を利用することは、
現実の色んな場面に見受けられるからだ。
そのとき、どれだけ他のものに目端が利き、
どれだけこれまでの文脈を理解し、
どれだけこれまでより新規性を開拓したか、
批評しなければならない。
それが出来ていないものは、主観を批評の衣で包んだ言い訳だ。
人は、生まれながらにして、
その能力を100%持っているわけではない。
主観は自由だが、
主観を書いた感想が、正しく書けているわけではない。
客観的批評の筈が、主観を交えて分離できてないこともしょっちゅうだ。
しかし、正しく書けなければならないことは、
たしかだ。
正しく感想を書く練習をしよう。
あなたの主観はどのように客観化されるか。
そして、客観がうまく働いたとき、
自分自身の作品をも、
客観的に批評し、
その価値を判断し、
どうすればもっとよくなるか、
判断することも可能になるだろう。
あなたは手だけではなく、目も持たなければならない。
2020年04月24日
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