2020年05月10日

筋を通す

現実の世界でよく使う言葉だ。

これがどういうものだか理解すれば、
脚本における筋というものが、
どういうものか理解できるかもしれない。


現実の世界で筋を通すとはどういうことだろう。

理屈があってる、ということではないか。
そしてその理屈とは、
「客観的に見て」が必要だろう。

主観的に筋を通してもしょうがない。
その人の中で理屈が通っているのかもしれないが、
客観的に見たらおかしなことは沢山ある。

先日の山梨で、
コロナの陽性反応が出たにも関わらず、
バーベキューして東京へ戻った女がいたが、
彼女の中では「犬が心配で」
という主観的な筋が通っている。

しかし感染症対策を考えれば、これは客観的な筋は通っていないわけだ。

客観的に見れば、
自分の身勝手で周囲に大変な迷惑と恐怖を与えた、
ということは理解できると思う。

ここだ。

筋は客観的に通っているかどうか、
そこに主観的な筋があるかないか、
なのだ。


総合的に見て、
客観的な筋が通るべきだ。

どんな立場から見ても、
どの立場から見ても、
いつの時代から見ても、
「そのような事情で、
このようなことをして、
このようになることには、
筋が通っている」
であるべきなのだ。

物語は人生の写像である。

(客観的な)筋の通っていないものは変だし、
主観的には筋が通っていても、
客観的には筋の通っていないものは、悪という。

それは、人生でも物語でもおなじなのだ。


つまり、理由、認識、行動、結果、
それらの組が、
筋に関係しているわけだ。

初心者は、ともすれば、
主観的な筋だけにはまってしまう。
自分だけが面白いと思っている滑り、
自分だけが理路整然としていると思っている、
矛盾やご都合主義、
他人の筋を認めない偏狭。

ベテランは、主観的筋を利用しながら、
客観的筋を通す。
つまり、
各キャラクターからの主観では筋が通っているが、
客観的にはそれが歪んでおり、
その歪みが正されるまでがストーリーである、
たとえば主観的筋(事情や目的や動機)のぶつかり合いとして、
などのように編成する。

客観的に筋が通っていながら、
各キャラクターの目線から見ても面白いようにするわけだ。



その物語はどういう筋が通っているのか。
そしてその筋が通ることで、
何が世の中に影響を与えるのか(テーマ)。

そんなことを考えながら、
プロットを俯瞰しよう。
posted by おおおかとしひこ at 10:02| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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