現実の世界でよく使う言葉だ。
これがどういうものだか理解すれば、
脚本における筋というものが、
どういうものか理解できるかもしれない。
現実の世界で筋を通すとはどういうことだろう。
理屈があってる、ということではないか。
そしてその理屈とは、
「客観的に見て」が必要だろう。
主観的に筋を通してもしょうがない。
その人の中で理屈が通っているのかもしれないが、
客観的に見たらおかしなことは沢山ある。
先日の山梨で、
コロナの陽性反応が出たにも関わらず、
バーベキューして東京へ戻った女がいたが、
彼女の中では「犬が心配で」
という主観的な筋が通っている。
しかし感染症対策を考えれば、これは客観的な筋は通っていないわけだ。
客観的に見れば、
自分の身勝手で周囲に大変な迷惑と恐怖を与えた、
ということは理解できると思う。
ここだ。
筋は客観的に通っているかどうか、
そこに主観的な筋があるかないか、
なのだ。
総合的に見て、
客観的な筋が通るべきだ。
どんな立場から見ても、
どの立場から見ても、
いつの時代から見ても、
「そのような事情で、
このようなことをして、
このようになることには、
筋が通っている」
であるべきなのだ。
物語は人生の写像である。
(客観的な)筋の通っていないものは変だし、
主観的には筋が通っていても、
客観的には筋の通っていないものは、悪という。
それは、人生でも物語でもおなじなのだ。
つまり、理由、認識、行動、結果、
それらの組が、
筋に関係しているわけだ。
初心者は、ともすれば、
主観的な筋だけにはまってしまう。
自分だけが面白いと思っている滑り、
自分だけが理路整然としていると思っている、
矛盾やご都合主義、
他人の筋を認めない偏狭。
ベテランは、主観的筋を利用しながら、
客観的筋を通す。
つまり、
各キャラクターからの主観では筋が通っているが、
客観的にはそれが歪んでおり、
その歪みが正されるまでがストーリーである、
たとえば主観的筋(事情や目的や動機)のぶつかり合いとして、
などのように編成する。
客観的に筋が通っていながら、
各キャラクターの目線から見ても面白いようにするわけだ。
その物語はどういう筋が通っているのか。
そしてその筋が通ることで、
何が世の中に影響を与えるのか(テーマ)。
そんなことを考えながら、
プロットを俯瞰しよう。
2020年05月10日
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