2020年05月09日

じゃあどういうラストなら、と考えてしまう(「主人公は僕だった」評)

国税庁の堅物役人の人生に、
突如鳴り響くナレーション。
それはその男を書く「作者」の地の文であった。

このアイデアがとても面白い。
ダスティンホフマンの教授役もすごくいいし、
ヒロイン像も素晴らしい。

しかしあのラストは、もっと他のがなかったのか、
とプロとしてものすごく考えてしまう。

以下ネタバレ。


セオリーとしては、
時計から始めたから、
その時計が命を救ったのだ、
ということになり、
形としてはできていることになる。

問題はその意味だろうか。

含意としては、時計の刻む、
一分一秒こそが人生そのものなのだよ、
ということなのだろう。
(奇しくも、100ワニと同じだ)

しかし主人公のハロルドは、
その時間や数字に縛られた人生で、
そこからの脱出を特に欲していなかった。
だから、
その支配の象徴である時計が壊れることに、
含意が仕切れなかったように思う。

死を覚悟した夜、
恋人に内緒の話があるといって、
ホームレスにあげたぶんで税金対策をしたことは、
ものすごく「彼のキャラクターによる最大の愛の表現」
になったと思う。

しかしこれがラストに生きるわけではなかった。
ギターの場面がすごく良かっただけにね。


小説の草稿、
「この結末しか有り得ない」「文学史に残る」
と言わしめた死に方のハードルが上がりすぎたのも問題か。
あの子供を助けてバスに轢かれることの、
どこがその結末しかあり得ないのや。

もっと、ハロルドの死(仮)に、
成る程と唸らせる、
文学史に残る死に方があれば、
さらにそれをどんでん返せる、
ハロルドの死を書き換え、
悲劇は喜劇へと変わったのだ、
文学史に残る死よりも、凡作なる生を、
というテーマ性へ結実できたかもしれない。

ここさえきちんと出来ていれば、
それこそ映画史に残る映画になり得たのになあ。



「ナレーションに気づく」
「教授が『どの物語の主人公か』推理していく」
などのメタ的なものはすごく面白かった。
その小説家が実在して、会いに行く、
というひねりも強烈に面白い。

しかし、根っ子のアイデアが上のものであったことが推察され、
「ではこの話のテーマはなんなのか」
から考えられていないことが、
冒頭とラストのペアから読み取れる。

脚本添削スペシャルでもあった、
「そのモチーフでどんなテーマを描いているか」
である。


この話を象徴するものは、時計だ。
え?そうなん?と思うのが問題で、
事件のはじまりが時計で、
命を救ったのも時計なのだから、時計であるべきだ。

しかし時計がこの話全体を象徴していないので、
腑に落ちないのだ。
かわりにクッキーとか、ギターとか、スペースキャンプとか、
色んなものに分散してちらついてしまっている。

この話の象徴は、時計だ。

こうなるように全てが組まれていれば、
最高!となったはずだと、僕は思う。

だって最後腕のギプスに時計が落書きされるんだぜ。
そこになんの象徴的含意もないではないか。
むしろギターの落書きのほうが、
ハロルドの人生に重要じゃないかと思ってしまう。


じゃあ、時計をこのストーリーの象徴とするために、
考えてみよう。

ヒロインとのラブストーリー、Bストーリーは魅力的だった。
Aストーリーは死を止めることだ。
やはり、時間がテーマになるべきだったと思う。

秒針がひとつ動く時、あなたは生きている。
次に秒針がひとつ動く時、あなたは生きている。
その積み重ねが、ただ人生だ。
その時計が壊れても、ただ時計が壊れただけで、
あなたの人生が壊れたわけではない。
時計は関係ない。人生だけが関係しているのだ。

こんなふうに、壊れた時計からギターへと持ち替えるラスト、
にするとしたら、
ハロルドは、「回数を数える人」や「計算する人」ではなく、
「時間に縛られる人」にするべきだったろう。
一秒の遅刻を恥とする人のような。

そのように第一印象を固定すれば、
ラストと係り結びができただろう。

あとは、「この結末しかあり得ない草稿」だな。

たとえばこの時計は正確にハロルドの死をカウントしていた、
すべては運命だったのだ、
ハロルドは生まれてから死ぬまで時計に管理されたのだ、
みたいにすれば、
その時計を壊すこと、時間から脱出することが、
人生の大逆転になったかもしれない。

たとえばギターを弾くときに、メトロノームに縛られていて、
テンポを崩すことが重要であるとか。
セックスのピストンすらメトロノームに正確で、
それを崩すことが重要であるとか、
そうした「時計からの逸脱」を、
モチーフにしていけば良かったのではないかと思う。


で、時計から逸脱したからこそ、
ハロルドは死んだ、というふうにすれば、
その結末しかあり得ない、と皆がいうようなものになる。
さらにそこを、僕はそうは思わないと、
ハロルドだけが皆の「客観」を、
主観で逸脱すれば良かったかも知れない。

ラスト、時計の破片が刺さって、という冗談のようなご都合はやめて、
皆が納得するハロルドの死の運命を、
ハロルド自身が裏切る(事前に死に方をしっていたゆえに)
というようにすれば、
力強い生がテーマになり得たかも知れない。

(脚本上で何回も書き直された可能性がある。
今議論したラストは、断片から復元してみた)


結局、映画はテーマとモチーフへ帰着する。
その芯がぶれていたから、
微妙なラスト感が強く、
腹落ちしなかった原因だろう。
ツカミや前振りは、それ単独で存在しない。
落ちとの関係で決まる。
posted by おおおかとしひこ at 11:25| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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