男女論は差別だなんだとなりがちだけど、
脳の構造差が統計的にあるので、どうしても差異は出る。
優秀な頭脳の脚本家は、それらを凌駕した素晴らしい脚本力を持つが、
そうでない人は男女差の壁を越えられず、
以下のような欠点を示すことがある。
そして大抵無自覚だ。
一般に以下のような特徴がある。
男は、冒険、科学、戦闘、人間の上下、歴史、地図を好む。
女は、家庭、文化、仲のいい悪い、人間関係、今、相対関係を好む。
これは、好ましいものについての統計的結果であり、
女は政治や科学や冒険に参加するべきでないとか、
男はスイーツや化粧するべきでないとか、
そんなことを言おうとしているわけではない。
ただの傾向だ。
生得的脳の特質、文化的同調圧力、歴史的経緯などから、
現状がある。
だが生得的に、
男は地図が読めて女は地図が読めず、
男は空気が読めず女は空気を読む、
傾向にあるようではある。
で、本題。
これが、脚本家の欠点であるところの、
男女差に結構反映している。
男は、女の好むものが足りない、
女は、男の好むものが足りない、
という傾向にあるわけだ。
つまり、詰まらない男の脚本家の書くものは、
たとえば、
戦闘ばっかりしてて意義はどうでもいいとか、
上下関係が重要で個人の意思はどうでもいいとか、
設定や空間はできているのに肝心の人間の気持ちや関係を描けないとか、
科学的知識の蘊蓄で終わってしまうとか、
過去の話の方が重くなり、現在の話がスカスカとか、
理屈ばかりのあたまでっかちとか、
そのような傾向が強くなる。
対照的に、詰まらない女の脚本家の書くものは、
たとえば、
政治や組織をすっ飛ばして半径2mの話しかないとか、
戦闘描写や戦いに赴く者や、それらの組織が描けないとか、
今ばかり大事で、過去のことをなかったことにするとか、
因果関係の構築や落ちで全てわかるタイプが書けないとか、
人間関係がドロドロすぎてただの動物園だとか、
科学知識が足りず客観性がなさすぎるとか、
そのような傾向が強くなる。
もちろんそうでない素晴らしい作家はいるし、
自分の苦手な所を避けて得意分野で成功する人もいる。
そういう人たちは、
自分たちの欠点に自覚的だといえよう。
問題は、欠点に自覚的でない人だ。
それが個人の欠点の場合もあるが、
意外とよくある男女差のある欠点にはまってる人もいるぞ、
ということで、
自覚してみようぜ、という意味でリストアップしてみた。
こういうことは、
長年いろんな人の脚本を読んでいるとわかるものだ。
たとえば、脚本添削スペシャルに寄せられた、
沢山の作例を読むと良い。
メアリースーやご都合主義や無理矛盾などの、
男女共通の欠点ばかりではない、
男女差のある特有の欠点が見えて来ることがわかると思う。
小林靖子という脚本家は、僕はきらいだ。
女特有の欠点が鼻につく。
彼女が自覚的かどうかは知らない。
刀剣乱舞を久しぶりに思い出して、
いつか男女差について議論したいと思ったのを思い出した。
たとえば、
「作者が女であることを隠して描いた少年漫画」は、
特有の臭みがある。
男読者は全員気付いているが女読者は気づいていないことが多い。
「シュート!」「鋼の錬金術師」「モテキ」あたりが有名だが、
僕はこれらが少年誌に載っていることに、
ものすごい違和感があった。
逆の例があまりないのが不思議だね。
また、ゲイの脚本家は、特有の傾向がある。
三谷幸喜、ウォシャウスキー兄弟を見れば、
中間的な作家性だということがわかるだろう。
(「マトリックス」は、
自分を導いてくれた男の恋人が囚われて、
助けに行く「闘う姫」の話だ)
人間関係が細やかで、地図(移動)をあまり好まない。
女性を他者(獲物)ではなく友達の女の子として描きがち。
男女の結婚に常にシニカル。
これは時に欠点にもなるし、利点にもなる。
三谷幸喜の脚本が素晴らしいのは、その唯一性だ。
レズビアンやバイ、トランスはわからないので研究してくれたまえ。
男女の求めるものが違いすぎるのは、
数多の広告を見れば分かるだろう。
だからといって、僕は理解し合えないとは思わない。
互いの差がわかれば、
共通する部分はどこかを探れるはずだ。
問題は、差異に無自覚で、
「違うから糞」としか思えない短絡の思考だと思う。
自分の欠点に自覚的か。
それはあなた特有の欠点か。
よくある、男女差のある欠点か。
意外と自分の欠点は、よくある平凡な群の中に入るかも知れないよ。
同様に、僕は関西から東京に来たので、
関西特有の欠点と、関東特有の欠点があることを知っている。
これはまだ理論的になるまで客観化出来ていない。
欠点を自覚して、それをカバーして止まない長所があれば、
あなたの作品は認められるだろう。
欠点すら愛されるというものだ。
2020年05月10日
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