描写について。
A
その男は、目が細く、唇も薄く、冷酷な顔立ちをしている。
B
その男には、蛇のような冷酷さがあった。
C
親をためらいなく殺すことのできる生物は、
この世にどれだけいるのだろうか。
共食いをする動物は、親を食うのだろうか。
人間として生まれて、そのような性質は体内に宿るものだろうか。
その男は、あるいは共食いをする蛇であった。
Aは、男の容貌で、男を描写している。
Bは、比喩で男を表現している。
Cは、小説的な表現だ。どういう名前で呼ばれているのかはしらない。
Aは脚本で使える。
Bは脚本で使えるが、推奨ではない。
蛇のような考え方や行動や動機がないと、そういう容貌であっても意味がないし、
そういう容貌の役者を探すくらいに、
その男の行動や考え方が書き込まれているべきである。
Cは脚本では使えないパターンだ。
これを回想シーンや想像上のシーンで撮ったとしても、
男の性質にはならない。
映画というのは現在や具体であり、抽象は関係ないからだ。
僕はずっと脚本を書いてきたので、
Cのような表現が下手である。
しかし小説とは、それを書くことが勝負の部分もある芸術なんだなあ、
ということが最近わかってきた。
逆に、小説でAのような表現をどれだけ重ねても陳腐だ。
具体を書いてもしょうがない。
具体を想像させる、BやCのほうが小説表現として上等だろう。
しかし小説を映画化するときは、
Cのような表現を、Aに痩せさせないといけない。
だから小説の映画化は困難なのだ。
想像力をもってはばたく部分が、
具体に貶められてしまうからだ。
脚本というものは、Aだけで表現した何かである。
カメラで撮れるものしか、現場には用意できない。
映画は小説より演劇に近い。
だから、行動や動機やその結果が、
脚本の華なのである。
決して、描写は華にはならない。
実は、文筆業に従事しており、今後シナリオにも挑戦してみたいと考えておりましたので、
大岡さまのブログでお勉強させていただこうと思います。
今後も、しばしば読ませて頂きに訪れますのでよろしくお願いいたします。
このブログと巡り会えたことだけ、某映画には感謝しています。
なるほど、シナリオはシナリオでまた独特の作法があり、
別の基礎を積む必要があるかも知れません。
適当な入門書がなかなかないので、
僕は勝手に種を撒いている感じです。
(シドフィールド、ブレイクシュナイダーあたりがおすすめ。
ハリウッドばりばりですが)
過去記事が膨大なので、気になるトピックで検索するだけでも、
その迷路っぷりが垣間見えるかも。
とりあえず沢山名作映画を見て、自分なりに分析するのが一番しんどいけれど、
近道と思います。
あとは短編の習作、多作ですかね。