2020年05月14日

演説で人は変わらない

ストーリーは人間の(内面の)変化だという。
仮にX→Yに変化するとしよう。

「Xじゃないんだ!Yなんだ!」
「そうかYか!俺はこれからYという人生観になるぞ!」
はドラマだろうか?
僕は違うと思う。

つまり、説得による変化は、
現実にはあったとしても、
ドラマの上では非常に陳腐だと思う。




何故なら、ドラマの上では、
セリフは、行動より弱いからだ。

愛してると言うよりも、そっと抱きしめる方が強く、
嘘を暴くには言葉でなく証拠を突きつけるべきで、
もう自分を隠さないことを宣言するには、
被っていた仮面を叩き割る(小道具による表現)べきだ。

にも関わらず、
セリフでの説得をつい描いてしまうのは、
書き手が下手だからだと思う。


現実の世界で、
Xから演説によってYに変わるときはどういう時だろう?

その演説があまりにもいい時だろうか?
僕は違うと思う。

言われる側が、Xの現状である時に、
「密かにXではなくYだと思っている時」
ではないかと思う。


Yをうまく言える言葉が見つからない時に、
Yをうまく言われることは、
とても効果がある。

なるほど、これからYと考えるべきだ、
と思想や哲学や態度を変更するわけだ。
(ついでに他の人にもYはいいぞ、と伝道師になるだろう)

しかし、Yのことを考えもしない人が、
いきなり「XじゃなくてYなのだ」と言われたって、
「そうか、Yか!これからおれの人生はY一色だ!」
にはならないだろう。

もちろんそういう粗忽者もいるが、
大勢ではない。

「qwerty配列は良くない。薙刀式にするべきである」
と言われたって、早々人は薙刀式を触らない。
「qwertyは良くないことは薄々わかっていて、
代替手段も色々調べたが、
どうやら薙刀式は最適解かはおいといても、試す価値はあるぞ」
と思う人だけが、実際に薙刀式を触る。

広告も同様だ。
いきなり「XよりY」と言われて、
Yを買う人はほとんどいない。

薄々Xが良いと思ってなくて、
薄々Y的な何かが、まだ言葉になっていない時に、
Yに出会うと、「そうかYだったのか」となるものだ。

だから広告というのは、
いかにまだ言葉になっていない、XとYを見つけるかだ。

(例: 「恋は遠い日の花火ではない。OLD is NEW.」サントリーOLD
この場合、「恋は遠い日の花火ではない」がYにあたる。
省略されている、「OLDはOLDで、価値がないのだ」がXだ。
ここでYがそうだと思わない限り、
OLD is NEWは心に深く刻まれることはない。
こうした、きちんとしたXとYの関係が、
最近広告から失われて退屈だ)


つまり、
言葉における説得とは、
現実において、背中を一押しする効果しかない。

自殺したい人の背中を押す程度しか、機能しない。

そこらへんに歩いている人を、
ビルの屋上まで連れてゆき、靴を脱がせ、
遺書を書かせて、柵を乗り越えさせることは出来ない。

女を口説くのも同じだ。
自分のことに興味もなく、好きでもない女を、
いかなる言葉でも落とすことは出来ない。
女を口説けるのは、向こうがこちらに興味があり、
多少なりとも好意があるときに限る。


現実で、その程度しか言葉による説得は効果がない。

いわんや、映像という架空世界においてをや、である。


演劇、映画においては、
セリフよりもセリフのない場面の方が強い。
セリフよりもアクション(動作)の方が強い。

そういう状況下で、
「台詞によって人の態度や哲学が、
XからYに変わる」をすることは、
二重に下手だということがわかるだろう。


じゃあどうすればいいか?

「自らが気付くことで」だ。


他人に変えてもらおうと思っていること自体、
作者の甘え(メアリースー)である。

登場人物自らが、
「そうか、Xではなく、Yなのだ」と悟るべきだ。
そしてその表現は、
上のことから、
台詞による表現ではなく、アクション(行動)で示すべきだ。
(このとき小道具が使えるわけだね)


ここに至るルートこそが、ドラマなのだ。


最も簡単なものは、
「Xだと失敗し、Yだと成功する」
のようなものだろう。

しかし観客も馬鹿ではない。
「Xのやり方が悪かっただけなのでは?」とか、
「Yでなくとも、別の、A、B、Cでも良いのでは?」
などと考える。

もうお気づきかも知れないが、
「それらをひとつずつ潰していく
(X2でもX3でも、ABCも駄目…)」が、
中盤であるべきなのである。

「色々やった。やはりYしかないのだろうか?」
というところまでやってきて、
その最後の一押しまで来た時、
それが第二ターニングポイントになるということだ。

それに、ぜんぶで大体二時間かかる娯楽が、
映画である。


XからYへの、
自発的、台詞を伴わない、
それしか考えられない変化へ至るには、
それらの筋道が見えてくることが必要だ。


そして、小道具などを用いた、
行動(アクション)で、
結論を暗示する。

それが映画的変化の描き方である。


「Xじゃないんだ!Yなんだ!」
「そうかYか!俺はこれからYという人生観になるぞ!」
が、何重にも下手だということが、
分かるかと思う。


こういうことは、
実際にやってみて、
「自分の下手さ」を自覚しない限り、
上手くはなれない。

まずは立派な演説で感動して、
そのように変化する場面で、悦に入りたまえ。

それが、
桐谷版キャシャーンのクソみたいな演説シーンや、
シンゴジラのクソみたいな演説シーンと、
同じ程度であることを自覚して、
肝を冷やすことだ。


では、なぜ「インディペンデンスデイ」の、
演説シーンは鳥肌が立つのか?

その演説している本人が、
戦闘機に乗って先陣を切ることが分かっているからだ。
行動で示すから、
私たちは感動する。

そして、「我々の独立記念日である」というYに至る前に、
X、すなわち、宇宙人のむごたらしい侵略が、
徹底的に描かれているからである。
ここまで来て、誰もが、
誇りある戦いを選ばざるを得ないようなYの空気を作っているから、
最後の一押しが成立するわけだ。

(その最後の一押しに、タイトルの回収が入ってるのもアツイよね)



このような構造をわかっている人と、
わかっていない人は、
演説への力点がまるで違う。

たかがセリフで人を変えられるなら、
母親の一言で優等生が量産されるし、
政治家の一言でいい国になるわ。


マーチンルーサーキングJr.の歴史的演説は、
「インディペンデンスデイ」の元ネタのひとつだろう。
これも、黒人差別というXがあり、黒人の民権Yが、
すでに空気としてあったから成立した。
黒人の民権に黒人たちが気づいていない状況では、
いかなる演説も効果がない。
ヒトラーの演説が効いたのは、
ユダヤへの憎悪Xがあったからだ。

そして当然だけど、
XとYが真逆のときに、力学がもっともダイナミックになるよね。



歌や俳句は小説は言葉しかないから、
強い言葉が最強表現かもしれない。

しかし映画では、
強い言葉は、わりと低級の表現である。
posted by おおおかとしひこ at 01:15| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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