2020年05月15日

メアリースーとはこういうこと

ただの妄想だと片付けるには惜しいので、
議論しておきたい。

最近Twitterでたまに見かける、架空のドラマの人物設定表。


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「まんさんは結局、様々なタイプのイケメンに囲まれて、
色んな好かれ方をしたいだけなのである」
という高度な批評なのか、
それとも妄想がダダ漏れした結果、
笑うしかない恥ずかしいものになったのか、
あるいはそれをわかった上で、妄想遊びしましょうよ、
という大人の娯楽なのか、
そこのところは分からない。(ネタだと信じたいが)

ちなみに男の妄想するハーレムは、
この対称形をしてないような気がする。
男の妄想だと、
自分は最強のヒーローで、
「敵」がいてそれをやっつけるところまで含まれそうだ。
「色んな女が俺を好き」だけでないこともありそう。

ところが上の例では、「ただ好き」ばかりが転がっているのが、
大変興味深い。


以前、映画「刀剣乱舞」のラストで、
新しい審神者が幼女であることに、
「イケメンたちに理由なく可愛がられる幼女の願望」
(しかも幼女はブス)
という手厳しい批判をしたが、
それと同様のおぞましさを上の画像に僕は感じる。

これが、メアリースーである。


主観の中でそれを妄想するのは自由だ。
上の画像も、それを意識してのものだから、
非難されるには当たらない。
むしろネタとしてパーフェクトに出来ている。


メアリースーかどうかの論点はふたつ。

1. 自分は悪くなく、何もせずによく、ただ周囲から愛され、わがままを言いたい
2. それを他人の前で披露すること

妄想やネタであれば、2は入っていないので、
どうぞご自由に!としか言いようがない。

これを他人の前で作品として披露するところに、
メアリースー症候群特有の、
主観と客観の混同があるのだ。


知らない他人の主観は気持ち悪い。

それだけがわかっていれば良い。


ということは、
無前提での欲望を剥き出しにしないことだ。
その欲望が成立するような、
前提を作ったり、限定条件をつけてやったりして、
「客観的にそこへ入り込めるようにしてあげる」と、
メアリースーは他人の欲望ではなく、
自分の欲望へとシフトする。(感情移入)

上の架空ドラマで言えば、
「もう誰も私を愛さない」という前提があり、
ひどく傷ついたのだが、
私の持ち前の明るさやポジティブシンキングの影響をうけ、
やさぐれていた周囲の男たちもみんな前向きになり、
結果、私は皆から愛されるようになったのだ、
などがあれば、
それはよく出来たドラマになるのである。

受け身でなく積極的に周囲を変えていくところがポイントだ。

結果の美味しいところだけさらうから、
メアリースーの、ご都合主義の気持ち悪さがあるのだ。


危険なのは、まんさんの無意識にこれがあり、
本人が自覚してないことがあることだ。
イケメン雛壇の司会者になりたいことをね。
「優しい男の人が好き」という言葉は、
この状態をキープしたい、ことを指していることが、
往々にしてあるぞ。
「愛されメイク」「人気者コーデ」などの目的は何か、
ということだ。



要するに、人は甘やかされたい。

しかしストーリーとは、
主人公をいかに甘やかさないか、
いかに消滅させてしまおうとするかの逆境のことで、
それを甘えずに克服していく展開を描くことである。

メアリースーはその真逆の麻薬だから、
警告しすぎてすることはないのである。
posted by おおおかとしひこ at 11:26| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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