学校のテストと実社会の違いみたいなことだ。
学校のテストには、あらかじめ答えがある。
理論を応用すれば解けるように作ってある。
しかし現実はそうではない。
問題があったとしても、
解けない問題の可能性もあるし、
部分解しか求まらないものもあるし、
問題を変形すれば解ける場合もあるし、
特殊な条件下しか成立しないものもある。
それがどのような場合、範囲で、これが成立する、
と見積もることからやらないと、
その解が使い物になるかどうかも分からない。
勿論全ての場合で統一的に使える理論があれば素晴らしく、
それは物理学と呼ばれるほど理論化されている。
しかしそれ以外の分野では、
一般解はなく、
ある条件限定の解しか出ないものだ。
これは数学や物理の理論を現実に応用する、
システム工学の基本的な考え方だ。
どういう時に/どういう解、解法か、
が常につきまとう。
ある意見を述べるとき、
どんな場合でもどんな立場でも、
どんな時代でもどんな社会でも、
成立する意見はない。
どういう枠組みの中で、どれだけ有効か、
でしかない。
芸術にはテーマや主張がつきまとう。
ないものもあるが、
あるものの場合を話そう。
映画や物語は、テーマがないと詰まらないからね。
つまり物語は、
それが存在するだけで、
なんらかの意見を表明していることになる。
声高く主張するプロパガンダでないにせよ、
そこにいるということはそういうことを言ってるな、
という立場を持っている。
それが、
今、この時代、その枠組み内で、
妥当かどうかを、
あなたは創作しなければならない。
あなたの鋭い意見が世界を良くするならば、
(あるいは悪くしたり混乱させたりするのが目的でもいいが)
TwitterやYouTubeをやりなさい。
政治家になっても良い。
物語は、そうではない部分の意見や解を扱う。
直接的言葉や態度を変えるのではなく、
なにかあるものの価値について語るものである。
ざっくりいうと、
○○はいいぞ、ということか。
それが具体的な商品や人ではなく、
もっと広い何か(人間の性質や社会の何かとか)について、
○○はいいぞ、
ということが、
物語に課せられた、
主張や態度や価値というものかも知れない。
テーマを考えろ、
などと脚本の教科書は言う。
社会をすぐさま変える具体的意見は求めていない。
しかしじんわり染み通る、
それをみてしまったらそうとしか考えられない、
本格的な意見は、求められている。
それが一体どう言う形なのかを考えれば、
「○○はいいぞ」とまとめられないかな、
と思ったのだ。
○○には名詞ひとつだけ入るべきではなく、
△△な時の○○などの広い言葉が入ると思う。
あるいは、「PはQである」形式のテーゼが入ると思う。
あなたは、
どういう結論を出すのか。
それはどのような範囲で有効か。
それこそが創作に求められているものだ。
それに自覚的でない物語は、
やっぱり詰まらないし、
その結論自体がダサかったり鼻につくのも、
やっぱり詰まらない。
ああ、それだよな、それ、
となる結論へ着地できるかどうかは、
やはり創作者の腕だろうか。
正解はないが、
正解の性質だけはなんとなくわかる。
創作というのは、そんな所へ「これ!」を提供することだ。
2020年05月17日
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