前記事の続き。
複数でつくるものが詰まらないときは、
このことから説明できるのかも知れない。
民主主義は妥協である。
参加メンバーを全員(なるべく多く)幸せにするには、
尖った鋭い意見よりも、
削られた丸いものがよい。
ピンポイントに刺さり、
ある一部の人が莫大な利益を生むものより、
みんなが満遍なく手に入れられる幸せが良い。
466億かけて、マスク2枚が、
民主主義の幸福である。
つまり、
独裁政治による鋭くて遠くまで届くものに比べると、
民主主義は妥協である。
常に自分以外の誰かに足を引っ張られて、
想定より遠くへ行けなくなる。
弱点を補い合う利点はあるかも知れない。
それはマイナスを0にはするが、
プラスを大きいプラスにはしない。
そして、
誰か一人によって作られたものは、
マイナスがあったとしても、
プラスはマックスになっている。
その尖りが、人の心に刺さる。
それが、物語のテーマであるべきだと僕は思う。
その考察の深さ、
誰にもたどり着けないその遠望深慮こそが、
作家たるべきものの提供する娯楽である。
「そこは誰も考えていなかった」
こそがクリエイティブだ。
だがしかし、
共同脚本やら、
みんなで脚本を叩いて直す行為は、
民主主義と同じになってしまうと、
僕は考える。
ハリウッドの脚本ディヴィジョン方式は、
安定して面白みを作る工場としては機能するが、
何十人がかりでやったからといって、
何十倍面白くなるわけではない。
それらの総意としての丸い面白さにしかならず、
尖って心に刺さって抜けないものにはならない。
創作は独裁だ。
独裁者にはいいイメージがないので、
ならば哲人政治とでも言おうか。
刺さらないテーマはなんの意味もない。
僕はよく「無難ザグレート」などというが、
民主主義のできることは、事故を起こさないことだけだ。
そのかわり、マスク2枚程度の幸福しか与えられない。
広く浅くしたいなら民主主義をせよ。
深く新しさを更新したいなら、哲人になれ。
どちらを目指してもいい。
僕は、製作委員会方式は、民主主義になってしまっていると感じる。
商売か芸術かで言うと、商売丸振りに。
アングラな映画は芸術にもなっていない。
世の中を更新し、かつ商売になるには、
一人の哲人と、それを商売にできるプロモーターが必要だと思う。
2020年05月17日
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