2020年05月19日

構成に関する誤解

構成に関する誤解があるとすると、
「構成が出来たら、骨はほぼできたようなものだ」
というものだろうか。

構成が骨ではない。
プロットがストーリーの骨だと思う。
どういうことだろうか。


構成というのは、
あくまで、
「何がどういう順番で、どういう分量であるべきか」
について書いたものだ。
それは、
「一体どういう事件が起こり、
それがどういう展開になり、
どのように解決したのか」
というプロットとは関係ない。

つまり、同じプロットから複数の構成が可能である。

たとえば、
今回のコロナ騒ぎを映画にするとしよう。
どこからどこまでを映画にするだろうか?
そして、主人公は誰で、
どこのラインを中心に据えるか?
専門家会議か? 政府か? 東京都か? WHOは?
ニューヨークや台湾は?

真実の時間軸はひとつだが、
「どれをどの程度の分量を入れるのか」
を決めるのが構成だと言える。

今回はまだ完全なる解決ではないが、
仮に解決した人を主人公にするとして、
「どういう経緯でどういう解決をしたか」
というプロットは変わりない。
これが骨だ。

これにたいして、他のどんな要素を入れようかとか、
どこの時間軸を切り取ろうとか、
どういう絡みを中心に描くべきかとか、
ダイプリや中国をどの程度入れるかとか、
そのような「見せ方の分量」を決めるのが構成だと考えると分りやすい。

桃太郎のストーリーは決まっているが、
鬼側をもっときちんと描くとか、
三匹の家来をもっと描くとか、
桃太郎のプライベートに踏み込むとか、
そのような分量を決めるのが構成である。

「桃から生まれた力持ちの桃太郎が、
成人になって鬼退治に出かけ、
三匹の家来を味方につけ、
鬼をついに退治し、
村人の財宝を取り戻す」
というプロットが変わるわけではない。

つまり、プロットと構成はわけて考えるべきだ。

ところが、
これはストーリーを作り上げる初期段階、
よく混同される。

「プロットを提出」「構成案を提出」
などの言葉は、ほとんど同じ事を指している場合がある。
「まずプロットをつくって、
それから見せ方としての構成を考える」
という二段構えになく、
「ストーリーのひな型をつくる」
という程度の認識で使われていることがとても多いと思う。

それは、見る側も、
プロットと構成を分離して考えられていないことの証明だろう。

同じプロットで異なる構成、
同じ構成で異なるプロット、
というのがごっちゃになっているのだろう。

もちろん、ストーリーの発生の初期段階、
それらが前後してぐにゃぐにゃなることはよくあることだ。
「構成がよくなかったのだ」とリライトしても、
実際はプロットがよくなかったのだ、となり、
そっちをリライトした結果、構成も変わったので、
「構成を直してよかったね」と、
誤解が定着したまま終わっていることもよくあるだろう。
逆もしかりだと思う。


少なくとも、これを読んだ人は、
構成そのものはテンポや分量のことで、
プロットは事件の顛末そのものであることに、
気づかれたい。

もちろん、プロットを変えたり、
省略する場所をつくったりすれば、
構成は変わるだろうし、
ある構成に収めるためには、
プロットの変更が必要になるだろう。

だからか、これらは混同されているのだと思う。

あるストーリーを二部構成で見せよう、
というのは構成の話である。
主人公がこのことを知っていたことにしよう、
というのはプロットの話である。


構成はガワで、
プロットは中身だ。

それらの混同をしないことだ。
posted by おおおかとしひこ at 00:02| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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