構成に関する誤解があるとすると、
「構成が出来たら、骨はほぼできたようなものだ」
というものだろうか。
構成が骨ではない。
プロットがストーリーの骨だと思う。
どういうことだろうか。
構成というのは、
あくまで、
「何がどういう順番で、どういう分量であるべきか」
について書いたものだ。
それは、
「一体どういう事件が起こり、
それがどういう展開になり、
どのように解決したのか」
というプロットとは関係ない。
つまり、同じプロットから複数の構成が可能である。
たとえば、
今回のコロナ騒ぎを映画にするとしよう。
どこからどこまでを映画にするだろうか?
そして、主人公は誰で、
どこのラインを中心に据えるか?
専門家会議か? 政府か? 東京都か? WHOは?
ニューヨークや台湾は?
真実の時間軸はひとつだが、
「どれをどの程度の分量を入れるのか」
を決めるのが構成だと言える。
今回はまだ完全なる解決ではないが、
仮に解決した人を主人公にするとして、
「どういう経緯でどういう解決をしたか」
というプロットは変わりない。
これが骨だ。
これにたいして、他のどんな要素を入れようかとか、
どこの時間軸を切り取ろうとか、
どういう絡みを中心に描くべきかとか、
ダイプリや中国をどの程度入れるかとか、
そのような「見せ方の分量」を決めるのが構成だと考えると分りやすい。
桃太郎のストーリーは決まっているが、
鬼側をもっときちんと描くとか、
三匹の家来をもっと描くとか、
桃太郎のプライベートに踏み込むとか、
そのような分量を決めるのが構成である。
「桃から生まれた力持ちの桃太郎が、
成人になって鬼退治に出かけ、
三匹の家来を味方につけ、
鬼をついに退治し、
村人の財宝を取り戻す」
というプロットが変わるわけではない。
つまり、プロットと構成はわけて考えるべきだ。
ところが、
これはストーリーを作り上げる初期段階、
よく混同される。
「プロットを提出」「構成案を提出」
などの言葉は、ほとんど同じ事を指している場合がある。
「まずプロットをつくって、
それから見せ方としての構成を考える」
という二段構えになく、
「ストーリーのひな型をつくる」
という程度の認識で使われていることがとても多いと思う。
それは、見る側も、
プロットと構成を分離して考えられていないことの証明だろう。
同じプロットで異なる構成、
同じ構成で異なるプロット、
というのがごっちゃになっているのだろう。
もちろん、ストーリーの発生の初期段階、
それらが前後してぐにゃぐにゃなることはよくあることだ。
「構成がよくなかったのだ」とリライトしても、
実際はプロットがよくなかったのだ、となり、
そっちをリライトした結果、構成も変わったので、
「構成を直してよかったね」と、
誤解が定着したまま終わっていることもよくあるだろう。
逆もしかりだと思う。
少なくとも、これを読んだ人は、
構成そのものはテンポや分量のことで、
プロットは事件の顛末そのものであることに、
気づかれたい。
もちろん、プロットを変えたり、
省略する場所をつくったりすれば、
構成は変わるだろうし、
ある構成に収めるためには、
プロットの変更が必要になるだろう。
だからか、これらは混同されているのだと思う。
あるストーリーを二部構成で見せよう、
というのは構成の話である。
主人公がこのことを知っていたことにしよう、
というのはプロットの話である。
構成はガワで、
プロットは中身だ。
それらの混同をしないことだ。
2020年05月19日
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