昔CМ出身としてショートフィルムをやったとき、
「CМとショートフィルムの違いは?」
と聞かれて、真面目に答えたことがある。
「CМは落ちが商品であるが、
ショートフィルムは落ちを自分で決めなければいけない」と。
CМの落ちなんて超簡単なんだよ。
その商品が素晴らしい、
というテーマに落ちればいい。
どういうストーリーや仕掛けを考えたとしても、
どんな名コピーを書いたとしても、
どんなに時代に寄り添っても、
どんなに時代を変えても、
その商品や企業は素晴らしい、が落ちである。
(どう素晴らしいかとか、どういう価値があるかは、
決めないといけないが)
物語は、
もっと広いところからテーマを選べる。
もちろん、選ばないといけない。
たかが金で買える商品の価値の範囲よりも、
もっと広い範囲からテーマを決めていい。
(もちろん、商品や企業の価値にしてもいい)
人類が今まで選んできたテーマを選んでもいいし、
似たものを選んでもいいし、
組合せを選んでもいいし、
まだなかったテーマを選んでもいい。
自由だ。
それこそが映画だ。
あとは、それがいかに心に深く刺さるか、
刺さるようにできているか、
どれだけ新しく、そして真に迫っているか、
だと思う。
それを決めるのは、作家的感性であり、
時代とどう付き合っているかを示す。
時代と寝てもいいし、時代とずれているが、普遍的なことをしてもいい。
自由だ。
もちろん、そこに切れよく落ちることが大事だ。
商品や企業の価値に切れよく落ちる、
CМの切れより、より切れよく落ちることだ。
そうじゃないと、CМ以下といわれるだろう。
あなたのやっていることは文学の一種だが、
世の中のすべての文学とその他の何かと比べられるということは、
覚悟しておくほうがよい。
CМ出身がうまく映画に進出できないのは、
このテーマとの付き合い方がうまくないからかもしれない。
逆に、CМ出身は、テーマをあたえられると、
それに落ちる切れの良いものが得意だったりする。
ということは、あとはいいテーマを見つけられれば、
そのへんのしょうもない人たちよりも、
ずいぶん勝利に近いところにいるはずだ。
だが、そのテーマを選べるのか、
数ある誤謬を避けて真実に収斂できるか、
といったことが、一番難しいのではないか。
コロンブスの卵を生むことと、僕は同じだと思っている。
オリジナルなテーマこそ、最大の発明であるべきだ。
言われれば誰でもわかるシンプルな形で、
誰にでも簡単に説明できて、
しかも言われるまで誰も気づかなかったもの。
そういう形をしているものが、
あとまで残る。
僕が大学生のときに見て、
いまだにこれを超えた「自意識」に関するテーマがないと思えるものに、
「僕を入会させるようなクラブに、僕は入りたくない」
(アニー・ホール)
という素晴らしい逆説がある。
これはひとつの金字塔の例だ。
2020年05月25日
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