2020年05月25日

何を言うのか、決めないといけない

昔CМ出身としてショートフィルムをやったとき、
「CМとショートフィルムの違いは?」
と聞かれて、真面目に答えたことがある。
「CМは落ちが商品であるが、
ショートフィルムは落ちを自分で決めなければいけない」と。


CМの落ちなんて超簡単なんだよ。
その商品が素晴らしい、
というテーマに落ちればいい。
どういうストーリーや仕掛けを考えたとしても、
どんな名コピーを書いたとしても、
どんなに時代に寄り添っても、
どんなに時代を変えても、
その商品や企業は素晴らしい、が落ちである。
(どう素晴らしいかとか、どういう価値があるかは、
決めないといけないが)

物語は、
もっと広いところからテーマを選べる。
もちろん、選ばないといけない。

たかが金で買える商品の価値の範囲よりも、
もっと広い範囲からテーマを決めていい。
(もちろん、商品や企業の価値にしてもいい)

人類が今まで選んできたテーマを選んでもいいし、
似たものを選んでもいいし、
組合せを選んでもいいし、
まだなかったテーマを選んでもいい。
自由だ。
それこそが映画だ。

あとは、それがいかに心に深く刺さるか、
刺さるようにできているか、
どれだけ新しく、そして真に迫っているか、
だと思う。

それを決めるのは、作家的感性であり、
時代とどう付き合っているかを示す。
時代と寝てもいいし、時代とずれているが、普遍的なことをしてもいい。
自由だ。
もちろん、そこに切れよく落ちることが大事だ。

商品や企業の価値に切れよく落ちる、
CМの切れより、より切れよく落ちることだ。
そうじゃないと、CМ以下といわれるだろう。

あなたのやっていることは文学の一種だが、
世の中のすべての文学とその他の何かと比べられるということは、
覚悟しておくほうがよい。


CМ出身がうまく映画に進出できないのは、
このテーマとの付き合い方がうまくないからかもしれない。

逆に、CМ出身は、テーマをあたえられると、
それに落ちる切れの良いものが得意だったりする。
ということは、あとはいいテーマを見つけられれば、
そのへんのしょうもない人たちよりも、
ずいぶん勝利に近いところにいるはずだ。

だが、そのテーマを選べるのか、
数ある誤謬を避けて真実に収斂できるか、
といったことが、一番難しいのではないか。

コロンブスの卵を生むことと、僕は同じだと思っている。
オリジナルなテーマこそ、最大の発明であるべきだ。

言われれば誰でもわかるシンプルな形で、
誰にでも簡単に説明できて、
しかも言われるまで誰も気づかなかったもの。
そういう形をしているものが、
あとまで残る。


僕が大学生のときに見て、
いまだにこれを超えた「自意識」に関するテーマがないと思えるものに、
「僕を入会させるようなクラブに、僕は入りたくない」
(アニー・ホール)
という素晴らしい逆説がある。
これはひとつの金字塔の例だ。
posted by おおおかとしひこ at 07:43| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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