人と違う、変な性質を持つことはどういうことか。
僕が文字に色が見える共感覚の持ち主であることは、
昔書いたと思う。
こんなものを見たので。
『物から線が見えている生活』に苦しめられた10年間
https://mogkor.hateblo.jp/entry/2020/05/11/090000
人間の目(もしくは脳)は、
ものの垂直水平を感じ取る力がある。
そうじゃないと建築とかできないし。
それが極端に感覚にまで浸潤した例だろう。
絵を描くときのパースにおける補助線が、
常に感覚としてあるような感じか。
特殊な例ではあるが、
驚くべきものというほどではない。
なぜなら、
人間の生得的な感覚「垂直水平を感じる感覚」
に基づいているからだ。
対角線もその派生だということは理解できる。
文字に色が見える共感覚は、
文字の概念や文字の形と、色を感ずる感覚が、
どこかで混線して混ざってしまうことによって起こると考えられている。
この感覚は比較的多い方で、
デザイナーや言葉を扱う人には、
稀によくいる。
さて、本題。
僕が言いたいのは、
そのような人が社会で生きる時の困難である。
まず理解されない。だって聞いたことないし。
そして分からない。
頭では理解しても、感覚ではないのだから。
「霊が見える」というのと同じだ。
つまり、不気味がられる。
次に起こることは排斥である。
人は理解できないものを側に置きたがらない。
不安の種は捨てたい。
だから、分かっていても、排斥したくなる。
排斥したら安心だよ。
問題は、排斥される側だ。
彼らは孤独だ。理解されるということが一生ないからだ。
進んで人と交わろうとしなくなる。
何故ならこれまで何度か人と仲良くなろうとしても、
その変な能力ゆえに、
最終的には排斥される歴史を、
何回か経験してきたからだ。
閉鎖的な村に引っ越してきた外国人一家は、
必ず排斥される。
人間という集団は、そのように異物を扱うように出来ている。
線が見えたり、文字に色が見えたり、
外国人であることなどの、
ディテールが異なっても、
結果は常に同じである。
無理解、恐怖、不安、排斥、そして孤独だ。
フランケンシュタインの孤独と、
全く同じである。
ヒーローは孤独だ。
それはカッコいいからではなく、
その能力が誰にも理解されないからだ。
誰ともこの力を分かち合えない、
彼にとって力は呪いである。
こんなものなければいいのに。
こんなものさえなければ、人々に溶け込み、
仲間になれたのに。
彼らはこの力を最初は理解するフリをするが、
理解できない部分に至ると混乱し、恐怖し、
最後には集団で排斥する。
そのような集団を描いた物語はたくさんある。
胸糞悪い話で言うと「ドッグヴィル」なんて典型だね。
何か特別な能力のある人は、
あんな暴徒に襲われないように、
目立たないように生きているものだ。
日本のヒーローは、この後ろ暗いところを描くことが多かった。
最近はどうだろう。
そういうことをしてない匂いがする。
少し見たのは響鬼と電王だったが、どうにも感覚が合わなかった。
線が見えることや、色が見えることや、
外国人であることや、霊が見えることなど、
異能を創作することは簡単だろう。
それはモチーフだ。
それを通して、
孤独や排斥や、人間の真実を描ければ、
フランケンシュタインになるわけだ。
(モチーフはマッドサイエンスと人造人間だが)
件の主は、沢村一樹も同じだと知って、楽になったという。
理解者の存在は、
どんな時代も人を助ける。
多様性なんて簡単にいうけれど、
自分たちと違う異分子を弾かずに、
ずっと不安でい続けられるだろうか?
それは、近代に突き付けられた、
人にとって諸刃の剣ではないかと常に思う。
自分たちに歯向かわない、利益供与者だけは多様性を認めるのなら、
それは多様性ではない。
人権は、あなたに反対する、不気味で理解し難い者にも、一様にある。
数の大小はなんの関係もない。
大が正義なら、ガリレオ裁判と同じである。
排斥を選ぶような思考停止は、愚かな中世だ。
排斥したくなる心と誰もが向き合うまで、
人類はまだ進歩していない。
2020年05月27日
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