あることを考えるとき、
「どういうことをしたいのかで手段を選ぶ」ことを、
目的オリエンテッドな方法、
「どういうことができるのか調べ、それでやれることを考える」を、
手段オリエンテッドな方法、
と呼ぶことにする。
前者はトップダウン、
後者はボトムアップだ。
脚本は目的オリエンテッドで手段を考えるべきである。
つまり、テーマが決まっていて、
それをどう表現するかを、考えることだ。
これが、逆になると道に迷うぞ、
というのが本題。
つまり、手段が色々あって、
それをどう編成したらまとまった何かが可能か、
ということで考えるべきではない、
という話。
これはよくやってしまう失敗のひとつだ。
「いまある技術(CGとか)で何か新しいものをつくって儲けたい」とか、
「すでに構築した世界やキャラクターを使って、
開発費をかけることなく何かしたい」とか、
「せっかく面白いガワを思いついたので、
これで何かストーリーを作りたい」
ということは、
プロデューサーサイドからとてもよくある要求である。
そして、自分自身もよくやってしまうやり方だろう。
だが、経験したことのある通り、
このやり方はほとんど成功率が低い。
正確にいうと、
「いまあるものでありあわせのものをつくる」
になるので、
最初から、「これをつくるんだ」と強い意志をもって作られたものに対して、
弱いものしか作れない。
シリーズものの二本目三本目が一本目に負けたり、
事務所のいい子を売り出すためのアイドルユニットが微妙だったり、
マーチャンダイジングが先行のキャラクター商品で何かストーリーを、
が全然詰まらなかったり、
ジャストアイデアが発展してそれ以上面白くならなかったりすることは、
すべて共通している、同じ現象だと僕は考える。
つまり、
「ありものを工夫してどうにかしよう」は、
冷蔵庫の中のあまりものを処理する料理しか作れないということだ。
腕のいいシェフならば、それでも何か工夫をするだろう。
しかし初心者にそれを求めるのは酷だと僕は思う。
(しかし、業界で若者に回ってくるのは、
こうした再構築ものである。
そもそも若者にチャンスが与えられていないからだ)
これはベテランの経験と腕が必要な仕事にも拘わらず、
最初から「これをつくろう」という目的オリエンテッドで、
色んなパーツを集めたものよりも、
相当弱いものになる。
成功例は、ドラマ「風魔の小次郎」だ。
僕には「こうしたい」という明確な目的があり、
それを実現する手段をみんな考えてくれ、
と無茶ぶった。
予算が低いから絵づらはたいしたことない。
にも拘わらず、そのうちそんなものは慣れてしまう。
実現の手段、料理の材料は安いものであったが、
見る人は、「こういうものが作りたかったのだな」
ということは分るものである。
だから、安い絵だとしても、予算が少ないことはありありと分ったとしても、
夢中になれるものになったのだ。
もしあれが、
こういう原作のこれを生かしながら、
これこれのキャストを使って、こういうグッズを出したいので、
それをまとめる間のやつをつくって下さい、
という依頼だったら、たぶん糞みたいな深夜ドラマになったに違いない。
僕は、「風魔を今の現代に、実写化することとはどういうことか」を考え、
今ならこうするべきである、
という目的をつくった。
具体的には、小次郎をきちんと主人公にして、
彼の成長を描き、姫子とのラブコメを完結するべきだと思った。
(原作での風林火山ゲット以降の小次郎は、
ただの人形になってしまっている)
それを中心として、風魔や夜叉の人物を再配置するべきだと。
だから竜魔は父親役になったし、
壬生は裏主人公になったし、姫子はヒロインになったし、
絵里奈や麗羅は友達になったし、
劉鵬や霧風は兄貴役になったわけだ。
それは、目的があったからだ。
それを表現する手段は、何が適切か、
ということでなやめたわけだ。
目的が先、手段はあとだ。
一方、映画「いけちゃんとぼく」は、
目的がよくわからなかった。
僕は「ドラえもんだと思わせて、
実は大人のラブストーリーであったというどんでん返し」
であるべきだと主張し、
宣伝部は出来上がってから、
「大人のラブストーリーとして売りたい」などと言い出した。
その齟齬が、制作や予算組の混乱を招き、
最後まで手術痕が消えていないものが出来上がったのは、
後悔がとても残っている。
手段が先で、目的はあとになった。
「これをまとめるには、どういう目的にするのがいいか」
と、船は進んでいるのにみんなが揉めている感じだった。
難破する船というのは、そうしたものだろう。
どうしたいのか。
まずそれを決めることだ。
自分の作品でも、これはとてもよくあることだ。
これのこの場面はいいから生かして、
テーマを変えてなんとかならないか。
これのこのキャラはいいから、
構成やテーマを変えて、なんとかならないか。
こんなことを思っているならば、
手段オリエンテッドの罠に陥っている。
それは、ありあわせの料理にしかならない。
しかもそれはとても腕がいる。
だったら、テーマという一番太い材料を仕入れてから、
これは焼いたほうが旨いとか、あれと煮込んだほうが旨いとか、
こういう酒と合わせるべきだとか、
やっていったほうが、
多少腕が悪くても、よりよいものになる。
後ろ向きでない、前向きなものになる。
あとはその目的が、
尊いかどうか、
説得力や魅力があるか、
ということでしかない。
「これは何をしたかったんだ」
なんて感想があるとき、
それは出来の悪さよりも、
目的の見えなさのことを言っているわけだ。
ディテールの出来はいいかもしれないが、
全体としてよくわからないものならば、
手段は分ったが、目的はなんだ、
というところで、訳がわからなくなってしまうということだ。
とくに、人が集まり、もうけ話になる現実の仕事では、
何をしたいかではなく、何ができるのか、
で話してしまうことがある。
出来ることを探すな。
目的を探せ。
技術は、目的を果たすために使う。
技術の披露に使うのではない。
2020年05月28日
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