2020年05月29日

結論を出してはいけない

テーマを語ってしまってはいけないのと同じ。
論文のように、明言してはいけない。
なぜだろう。


つまらないからだ。


映画は楽しむためにあるのであり、
何か新しい思想を植え付けられるためにあるのではない。

いかに素晴らしい思想であったとしても、
その思想がストレートに書かれているべきではない。

それが本当に素晴らしければ、
「見つける楽しみ」の中に隠すべきである。


なぜか?

見つけることは楽しいからで、
見させられることは不快だからだ。

興奮している女は自分でちんこを探し、見つけたら宝として喜ぶ。
興奮してない女は露出狂に嫌悪する。

興奮させ、探させ、見つけさせるようにするべきだ。
そうすると、
それこそが最大の楽しみになるのである。


「エヴァンゲリオン」のテーマはちっとも分からない。
人類補完計画や使徒は悪だとして、
それを倒す勧善懲悪という単純な話ではない。
もう少し何かを言おうとしていることは感じる。
だからもう20年くらい、それをみんな探している。
手がかりだけは異常にある。
しかし辻褄の合う一本の線は全然見えない。
しかしそれを「探させる」商売は、少なくとも20年もったわけだ。

僕は早々に、
「ここに辻褄の合う答えは用意されていなくて、
これは出来ていない物語である」
とわかったので、この熱病からは離脱した。
「考察」する価値のないものだと。


つまり、人は考察して、
「自分だけの答え」を探したい。

それを提供するのである。

だから、「答えはこれです」と言ってはいけない。
答え合わせをすることが物語ではなく、
答えを見つけさせるのが物語だ。
だから、暗示なのだ。


いや、私は私の考えた素晴らしい思想を開陳したいのだ、
という人は、
紀里谷版の「キャシャーン」を100回見るといいだろう。
何よりの拷問だ。

一方、おおもとの、新造人間キャシャーンも見るといい。
タツノコリメイクしたような気がするが、オリジナルしか認めない。
人類を助けるために新造人間になった男が、
人類から迫害される最終回付近の重さにおののくといい。
(実は新造人間キャシャーンのテーマは、
「たったひとつの命を捨てて」の前口上で全て語られている。
「キャシャーンがやらねば誰がやる」だ。
しかしそれが報われたことだろうか、
と最終回にひっくり返すのが非常に面白いわけだ)



すべての物語は、つまりはミステリーである。
犯人のかわりに、テーマがラストに明らかになるタイプの。
ヒントは最初から出ているべきで、
しかもひっかけがあったりして楽しめて、
最後には言わずとも明らかになり、
「そういうことか!」と言われるべきであろう。

難解であっては全員がたどり着けない。
この場合の難解とは、
扱う題材の難解さではなく、
ミステリーとしての難解さのことだ。

難解な題材ならばあなたがきちんと全員がわかるように解説すればいいだけのこと。
その上でミステリーを楽しめるようにすればいいだけだ。
ミステリーとして難解とは、
パズルとして不完全だということだ。
ヒントがわかりにくかったり、
答えを暗示されてもピンと来なかったりするものは、
ミステリーとして難解、すなわち出来が悪いだけである。


こんな風にテーマを捉え直すと、
テーマを延々演説することが、
いかに暗黙の了解を破る、無粋者であるかわかるかと。


結論は出すな。
暗示して、取りに来させよ。
その時、観客は椅子から浮く。


(こういう解説文では、
結論は最初と最後に印象的に出すものと決まっているが、
これは形式が異なるからである)
posted by おおおかとしひこ at 00:06| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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