発注をする側と、される側がいる。
素朴に考えよう。
1 脚本家がストーリーを考え、書く。
2 それをプロデューサーが見つけて、映画にしようと思う。
3 そのために資金を集め、俳優を集め、監督を呼び、興業のスタイルを考える。
4 監督が最初の脚本家を兼ねることもある。
(むしろそれが理想)
5 制作され、興業され、批評が確定する。
この場合、作者は脚本家だ。
発注側は作者、受注側はプロデューサーだ。
(プロデューサーと脚本家がたくらむ場合もある)
実際、今の日本映画で、このスタイルで何本作られているだろうか。
まず1が何本あるのだろう。
ハリウッドでは、脚本家組合が、オリジナル脚本を集め、
それをプロデューサーが閲覧できる仕組みがある。
日本にはなく、持ち込みのみだ。
そして、ほとんどの人は、知らない人の持ち込みをわざわざ見ることをしない。
つまり、コネがある脚本家しかプロデューサーに見てもらえない。
そもそもオリジナルストーリーは、ピンキリが激しく、
つまりはたいていはずれなわけである。
はずれに時間を使うのは、リアル映画だけで十分だよね。
それ以上の大量の持ち込みのはずれを見るのは、
よほどのモチベがないと無理だと思う。
しかし、ほんとうの当たりはここにしかない。
大量のはずれと、砂漠の中の針のような当たり。
当たりを見逃しても責められないかも知れないが、
折角当たりを物にしたと思った脚本家は、
見つけてもらえない不遇を囲う。
だからかも知れない。
日本の今のスタンダードの作り方はこうだ。
1 成功する保証のあるものをプロデューサーが探す。
芸能人を押さえた、原作を押さえた、
いまの流行りのこれを使う、などだ。
2 成功するから資金を借り入れる。
3 そのネタありきで、脚本家にまとめてもらう。
つまり脚本家は受注である。そこにオリジナリティはいらない。
保証にならないからだ。
4 押さえた人たち、つまり芸能事務所、原作サイド、
資金提供者、興業者からの意見を吸い上げ、
それが脚本に反映することを調整する。
脚本はオリジナルのストーリーではなく、調整材料に成り下がる。
これを何ループか行ってこいする。
5 まとまってきたら、これをまとめる監督を探す。
6 制作、興業され、批評が確定する。
この場合、作者はプロデューサーだろう。
発注はプロデューサーで、脚本家や監督は受注側である。
日本のスタンダードは、もはやこの形式が多くなってしまった。
これで、内容が充実するわけがない。
素朴な映画をつくるには、
脚本家が金を集めればいいのだろうか。
脚本家が芸能人を押さえれば済むのだろうか。
(「監督、有名人にコネあります?」と聞かれることは、たまにある)
僕は映画の作者になりたいが、
脚本家でいることは、そうではないようだ。
今の日本ならね。
コンクールがあるならば、
勝手に書いて応募したりできるが、
今状況は壊滅的だ。
ハリウッドのように脚本プールがあって、
それを会員ならだれでも閲覧できるようにし、
そこからのパクりは厳しく禁止すれば、
もっと良脚本が集まるかもしれない。
(そこまで実力のある脚本家が日本に沢山いないのかもしれないが)
で、ほとんどの人はずいぶんあきらめていて、
小さな仕事で糊口をしのいでいる状態だと思う。
なぜ素朴なやり方でうまくいかないかというと、
資金の集め方だと思う。
バブルのころはいけいけどんどんで、
どんなものにも先行投資したが、
今は何にも投資しないだろう。
「確実に儲けが出るものならば金を出します」
という人しかいない。
「金が返ってこない、つまり大コケするかもしれないものに、
金なんて出せるわけがない」
という人しかいないのかもしれないね。
そのへんは、投資の世界に詳しくないのでなんとも言えない。
つまり、今のほとんどの日本映画の作者は、
プロデューサーだ。
脚本家でも監督でもない。
ビジネスの才能はあったとしても、
クリエイティビティがあるとは限らないことは、
日本映画を見ていればわかるだろう。
僕は、映画はクリエイティビティの頂点のひとつだと思っている。
日本映画はそうではないだけだろう。
そのうちだれかがどこかで脚本の組織的プールする場をつくるまで、
しこしこと企画をためるだけだな。
企画があって、ホンが書ける人は、
だいたい今小説を書いている。
それが日本映画の現実だと思う。
これを30年前に知っていたら、
僕はプロデューサーになっていたかもしれないなあ。
素朴なやり方でも、到達の距離はあるかもしれない。
ネトフリなどが道を開きつつある。
あとはホン。
常にホン。
そしてホンには大量のはずれと、
世界を次に進める当たりがある。
当たりがその砂の中に入っているかは、
誰にも分からない。
2020年05月31日
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