手塚るみ子があまりに阿呆な表現をしたことで、
ずっと疑問に思っていた「火の鳥」をようやく再読し終えた。
(漫喫再開を待ってたよ)
大学生以来の二度目。
ものすごい傑作で、ああ、るみ子は阿呆なんだなあということが分かった。
100ワニのあまりにも浅いJPOPなみの、
「毎日を大切に生きようぜ今しかないんだ」
みたいなぺらぺらのメッセージとの差よ。
こんなものを天国の手塚が嫉妬するわけないやろ。
金でも積まれたんか。
手塚は火の鳥で何を描こうと思ったのだろう。
僕は、命は形を変えてでも生き延びようとする、
すごい力がある、
ということではないかと思った。
火の鳥の生き血を飲むと、永遠の命を得ることが出来る。
しかし、「若々しい、理想の姿」として永遠の命を得た者は、
作中一人もいない。
つまり、普通に思う「永遠の命」は何一つ実現しない、
という皮肉な結論だともいえる。
ユートピアを求めて旅立ったら、そこには何もなかったというような。
そのかわり、
その「ユートピアを求めて旅する力そのものが、いのちなのだ」
ということを言おうとしていると、
僕は思った。
なぜなら、
多くの登場人物たちは、
身体を欠損したり、故郷を追いやられたり、
異形のものに変わってしまったり、
立場を大きく変えてしまうことになったり、
いのちをぎりぎり失うところまで行ったり、
するからだ。
どんどん変形していく、命の変転をモチーフとして描いている。
それでもなお、生きようとする力、
どうしても目的を遂行しようとする動機、意地、思い込み、
そうしたことを、
いくつもの物語を用いて、バリエーションを描こうとしていたと、僕には思える。
クローン、ロボット、人工知能などの未来。
組織や宗教や村に囚われた過去の人類。
それらをうまくモチーフとして使いながら、
結局は主人公の人生の変転をどれだけ描きつくせるか、
どれだけ主人公は見た目が変わっても目的を果たそうとするのか、
ということが共通点だと僕には感じた。
そもそも「火の鳥」を再読しようとしたきっかけは、
100ワニのるみ子発言が最初だが、
その後、
「人類誕生からはじまって、次は滅亡の最終回を描き、
過去、未来、と行き来しながらどんどん現代に近づいてくる」
という壮大な構成のことを知ったからだ。
いったいどういう構想でそう考えたのか、
俯瞰してみたかったのだ。
しかし最後に描かれるはずだった、
「現代編」は手塚の絶筆によって幻となった。
では結論は出ていなかったかというと、
そうではない。
滅亡の時をすでに描いているからだ。
ついに人類は滅亡したとしても、
なおこの奇妙な人という生き物を、火の鳥は語り継ごうと思う、
というところで話は終わっている。
「生命賛歌」といえば聞こえはよいが、
いのちというのはすごくて面白い、
ということが結論だ。
とくに何がどう、ということを一切言っていない。
人の、どうにかして、身体が変わってしまっても、
生きようとする力を、
ただ描いているだけだと僕には感じられた。
これは「ブラックジャック」にも共通する考え方だ。
ブラックジャックの高い手術費は、
「そうまでして生きたいかどうか」を測る手段として使われることが多い。
それだけ、命は生きたいと願うものなのだ、
ということを描くわけだ。
たいていは無茶ぶりレベルまであって、
それをどこまで振り切れるかが、
ストーリーテラーの役割だともいえるだろう。
ブラックジャックはあくまで奇病レベルや、
貧困や犯罪レベルの、現実レベルでの生き方の話であるが、
火の鳥はSFであるぶん、いくらでも珍奇なモチーフを使って、
振り切ることが可能であるということだ。
狼の皮が顔に癒着した男、
永遠に生きる植物になった女、
生命を作り出そうとする博士、
ロボットの中身になった男、
野盗から仏師になった男、
赤ん坊に先祖返りする男、
クローンをつくって人殺し番組を作った男、
自分に殺されるまで治療し続ける尼、
などなど、
ブラックジャック以上の振り切り方が、
モチーフとして縦横無尽に描かれるわけだ。
味わうべきは、その発想の豊かさ(なるべく被りをしない)の振り幅だ。
時代をいくつも変えたことも、
振り幅をいくらでも作るためだということがよくわかる。
実は誰かが誰かの生まれ変わりだとか、あれのアレがつながっているとか、
そういうリンクを楽しみながらも、
結局は、
「命は必死で生きようとする。たとえ形が変わってしまっても」ということが、
共通したモチーフではないかと思った。
手塚は火の鳥を通して、何か高邁なことを訴えたわけではない。
ごく当たり前の、
欲望に囚われた人間、目的を果たそうとする人間、
立場によって運命がまるで変ってしまった人間、
を描こうとしただけに過ぎない。
それらが死んだり生きたりするさまを、
俯瞰して楽しんでいたに過ぎない。
つまりは手塚自身が、いのちを俯瞰して旅をする火の鳥自身だったのだろう。
現代編が描かれなかったのも、運命もしれない。
しかし手塚自身の人生が現代編だったのだと思えば、
最後のピースはすでにはまっている。
で、もともと興味のあった、大構造の意味だけど、
じつはそれは単なるガワなんだなということがわかってしまった。
未来の話はいかようにもネタを取れるし、
過去の話だってその時代でなければ成立しないわけではなく、
普遍的なことを描いていただけだしね。
(戦国や江戸も見たかったなあ。精々飛鳥時代までだったね)
この偉大なる綿密なタペストリーを、
JPOP以下の結論スカスカの100ワニと同等に扱ったるみ子は、
読解力がなさすぎるのではないか。
手塚がこれだけ必死でつくったものは、
もう少し報われていいはずだ。
僕はリアルタイムで手塚が死んだときに、この作品のことを知った。
当時出た全集で読んだが、いったい何をしようとしているのか、
よくわからなかった。
しかし今ならわかる。このタペストリーそのものが、
彼が見てきた宇宙なのだと。
虫の観察日記からはじまった彼の、いのちへの興味、
「そうまでして生きるもの」の集大成こそが、火の鳥という物語群だ。
この豊かな物語をまだ知らない人は幸いである。
蒙を啓かれることうけあいだ。
成程鋭い見方かと。
ブラックジャックの初期のコミックには、
「怪奇シリーズ」と銘打ってありました。
つまり、初期の「敵」は奇病であったと。
回を追うごとに、
「ブラックジャックは高額の手術代を請求することで、
あえて命の敵として立ちはだかるのだ」
という流れになってきたので、
「命とは」というテーマ性へと昇華したのでしょう。
実際、火の鳥現代編を構想したとしても、
「うーん大体ブラックジャックでネタ使ってしもたわ」
と困ったかもしれません。
一話完結もののネタ消費速度は半端ないので…
それでも負けず嫌いの手塚は「現代編は108パターンある」
とか言ってしまったかもですが。