2020年06月01日

いのちの変転(「火の鳥」書評)

手塚るみ子があまりに阿呆な表現をしたことで、
ずっと疑問に思っていた「火の鳥」をようやく再読し終えた。
(漫喫再開を待ってたよ)

大学生以来の二度目。
ものすごい傑作で、ああ、るみ子は阿呆なんだなあということが分かった。


100ワニのあまりにも浅いJPOPなみの、
「毎日を大切に生きようぜ今しかないんだ」
みたいなぺらぺらのメッセージとの差よ。
こんなものを天国の手塚が嫉妬するわけないやろ。
金でも積まれたんか。



手塚は火の鳥で何を描こうと思ったのだろう。

僕は、命は形を変えてでも生き延びようとする、
すごい力がある、
ということではないかと思った。

火の鳥の生き血を飲むと、永遠の命を得ることが出来る。
しかし、「若々しい、理想の姿」として永遠の命を得た者は、
作中一人もいない。

つまり、普通に思う「永遠の命」は何一つ実現しない、
という皮肉な結論だともいえる。
ユートピアを求めて旅立ったら、そこには何もなかったというような。

そのかわり、
その「ユートピアを求めて旅する力そのものが、いのちなのだ」
ということを言おうとしていると、
僕は思った。


なぜなら、
多くの登場人物たちは、
身体を欠損したり、故郷を追いやられたり、
異形のものに変わってしまったり、
立場を大きく変えてしまうことになったり、
いのちをぎりぎり失うところまで行ったり、
するからだ。
どんどん変形していく、命の変転をモチーフとして描いている。

それでもなお、生きようとする力、
どうしても目的を遂行しようとする動機、意地、思い込み、
そうしたことを、
いくつもの物語を用いて、バリエーションを描こうとしていたと、僕には思える。

クローン、ロボット、人工知能などの未来。
組織や宗教や村に囚われた過去の人類。
それらをうまくモチーフとして使いながら、
結局は主人公の人生の変転をどれだけ描きつくせるか、
どれだけ主人公は見た目が変わっても目的を果たそうとするのか、
ということが共通点だと僕には感じた。


そもそも「火の鳥」を再読しようとしたきっかけは、
100ワニのるみ子発言が最初だが、
その後、
「人類誕生からはじまって、次は滅亡の最終回を描き、
過去、未来、と行き来しながらどんどん現代に近づいてくる」
という壮大な構成のことを知ったからだ。

いったいどういう構想でそう考えたのか、
俯瞰してみたかったのだ。

しかし最後に描かれるはずだった、
「現代編」は手塚の絶筆によって幻となった。

では結論は出ていなかったかというと、
そうではない。
滅亡の時をすでに描いているからだ。
ついに人類は滅亡したとしても、
なおこの奇妙な人という生き物を、火の鳥は語り継ごうと思う、
というところで話は終わっている。

「生命賛歌」といえば聞こえはよいが、
いのちというのはすごくて面白い、
ということが結論だ。
とくに何がどう、ということを一切言っていない。
人の、どうにかして、身体が変わってしまっても、
生きようとする力を、
ただ描いているだけだと僕には感じられた。


これは「ブラックジャック」にも共通する考え方だ。
ブラックジャックの高い手術費は、
「そうまでして生きたいかどうか」を測る手段として使われることが多い。
それだけ、命は生きたいと願うものなのだ、
ということを描くわけだ。

たいていは無茶ぶりレベルまであって、
それをどこまで振り切れるかが、
ストーリーテラーの役割だともいえるだろう。

ブラックジャックはあくまで奇病レベルや、
貧困や犯罪レベルの、現実レベルでの生き方の話であるが、
火の鳥はSFであるぶん、いくらでも珍奇なモチーフを使って、
振り切ることが可能であるということだ。

狼の皮が顔に癒着した男、
永遠に生きる植物になった女、
生命を作り出そうとする博士、
ロボットの中身になった男、
野盗から仏師になった男、
赤ん坊に先祖返りする男、
クローンをつくって人殺し番組を作った男、
自分に殺されるまで治療し続ける尼、
などなど、
ブラックジャック以上の振り切り方が、
モチーフとして縦横無尽に描かれるわけだ。
味わうべきは、その発想の豊かさ(なるべく被りをしない)の振り幅だ。

時代をいくつも変えたことも、
振り幅をいくらでも作るためだということがよくわかる。
実は誰かが誰かの生まれ変わりだとか、あれのアレがつながっているとか、
そういうリンクを楽しみながらも、
結局は、
「命は必死で生きようとする。たとえ形が変わってしまっても」ということが、
共通したモチーフではないかと思った。


手塚は火の鳥を通して、何か高邁なことを訴えたわけではない。
ごく当たり前の、
欲望に囚われた人間、目的を果たそうとする人間、
立場によって運命がまるで変ってしまった人間、
を描こうとしただけに過ぎない。
それらが死んだり生きたりするさまを、
俯瞰して楽しんでいたに過ぎない。

つまりは手塚自身が、いのちを俯瞰して旅をする火の鳥自身だったのだろう。

現代編が描かれなかったのも、運命もしれない。
しかし手塚自身の人生が現代編だったのだと思えば、
最後のピースはすでにはまっている。



で、もともと興味のあった、大構造の意味だけど、
じつはそれは単なるガワなんだなということがわかってしまった。
未来の話はいかようにもネタを取れるし、
過去の話だってその時代でなければ成立しないわけではなく、
普遍的なことを描いていただけだしね。
(戦国や江戸も見たかったなあ。精々飛鳥時代までだったね)


この偉大なる綿密なタペストリーを、
JPOP以下の結論スカスカの100ワニと同等に扱ったるみ子は、
読解力がなさすぎるのではないか。

手塚がこれだけ必死でつくったものは、
もう少し報われていいはずだ。


僕はリアルタイムで手塚が死んだときに、この作品のことを知った。
当時出た全集で読んだが、いったい何をしようとしているのか、
よくわからなかった。

しかし今ならわかる。このタペストリーそのものが、
彼が見てきた宇宙なのだと。
虫の観察日記からはじまった彼の、いのちへの興味、
「そうまでして生きるもの」の集大成こそが、火の鳥という物語群だ。


この豊かな物語をまだ知らない人は幸いである。
蒙を啓かれることうけあいだ。
posted by おおおかとしひこ at 00:10| Comment(2) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
現代で命を考えさせられるのは病気、交通事故、戦争、事件、老い、出生位だからブラックジャックで書かれていて、これが現代編なんでは?と思っていた。
Posted by たろさん at 2020年06月04日 07:16
たろさんコメントありがとうございます。

成程鋭い見方かと。
ブラックジャックの初期のコミックには、
「怪奇シリーズ」と銘打ってありました。
つまり、初期の「敵」は奇病であったと。
回を追うごとに、
「ブラックジャックは高額の手術代を請求することで、
あえて命の敵として立ちはだかるのだ」
という流れになってきたので、
「命とは」というテーマ性へと昇華したのでしょう。

実際、火の鳥現代編を構想したとしても、
「うーん大体ブラックジャックでネタ使ってしもたわ」
と困ったかもしれません。
一話完結もののネタ消費速度は半端ないので…
それでも負けず嫌いの手塚は「現代編は108パターンある」
とか言ってしまったかもですが。
Posted by おおおかとしひこ at 2020年06月04日 09:41
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