2020年06月02日

手塚治虫の作劇法の研究

僕は手塚の中では、
「ブラックジャック」「火の鳥」「アドルフに告ぐ」「奇子」が特に好きだ。
これらには共通する特徴があると考えられる。

「立場がどんどん変わっていく」というポイントかと思う。


ある役職とか立場から、
事件が起こって、
全然違うそれになる。

あるときは囚われて身ぐるみ剥がれたり、
あるときは仏門に入って政治の表舞台から姿を消したり、
あるときは片腕を失ったり、
あるときは異形の者になったり、
あるときは全然違う組織の者として働かざるを得なかったり。

姿形を変えながら、
立場や抱える事情を変えながら、
なおも目的を果たそうとする人間たちが、
共通する構造ではないかと僕は思う。

だから、
なるべく「前の立場を失う」というドラマが作れるわけだ。

「前はあんなだったのに、今はこんなだ」
によって劇を進めるのが、
手塚は得意だったのではないか。
あるいは、
色んなものを描いてきて、最後に編み出した方法論だったのかもしれない。

視力を失っていたり、
村長になっていたり、
権力を失い奴隷になっていたり、
とにかく、
「なるべく前の立場と、遠い立場になること」
をビジュアル化するためにストーリーが用意されているように感じる。

つまりは振り幅だ。

手塚のストーリーは、
物語の振り幅の大きさを、
登場人物の立場の変遷によって描く特徴がある、
と言える。


適当に模倣してみる。

ある職業を目指している人間がいたら、
アクシデントで片手を失い夢を絶たれ、
別の職業についたとする。
しかしひょんなことから元の目的を果たせるチャンスを得、
今の立場をかなぐり捨てて旅に出る。
だが強盗に襲われ、身ぐるみ剥がされるどころか、
両足も失い、三年間監禁されてしまう。
しかし必死で義足を使いこなし、
ようやく出てきた頃、すっかり世界は変わってしまっていて、
その職業はもう世の中からなくなっていた。

みたいな感じ。


そういう、
上へ下へガンガン振り、
登場人物の見た目もガンガン振られるのが、
手塚が得意としたストーリーテリングではないかと思ったのだ。

何回、「すっかり変わってしまった」が使われるか、
一回の話で数えてみるといいだろう。
他の作家よりも、有意に多いと思われる。


これは特に大河系の話でよく使われる手法だ。
それを大長編ではなく、中編や短編でもやって来るのが、
手塚の面白いところだろう。

そのために、テヅカチャートがあるのではないか。

つまり、
「すっかり変わってしまった」をやるために、
どうやったら無理なく、しかも面白くそこへ辿り着けるかを考えるには、
テヅカチャートが最も有効な道具だからだ。

そしてゴールが決まっていればいるほど、
それと逆や全く違う方向に振るわけで、
それが激動や怒涛の感覚になるのだと思う。


あまり二時間映画で使われる手法ではないが、
これはこれで勉強に値すると思う。

あ、でも、三時間映画ならちょいちょいあるかな。
インターミッションを挟む系だと、
そこで大きく時間が飛ぶよね。

現代物ならなんだろう、次々に転職する男の話か。
ストーリーの位相がどんどん変わっていく感じになるだろうか。


参考までに。
posted by おおおかとしひこ at 00:11| Comment(0) | 脚本論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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