2020年06月01日

【薙刀式】配列は思考に影響を与える

と僕は思っている。


たとえば油絵を考える。
伝統的に、筆塗りとナイフ塗りがある。

筆は柔らかく精緻で、
ナイフは荒く鋭い絵がかける。

勿論題材や好みもあるけど、
今どっちかをメインにするとしよう。

何年も経つと、僕は道具が人に影響を与えると思う。
筆を使う人は、
柔らかく精緻なモチーフを生活の中に探すようになる。
そういうものを良いと思い、そういう絵を何年も描く。
ナイフを使う人は荒く鋭いものだ。

そうすると、世の中にある、
柔らかいものと荒いものの、比率が変わって見えてくると思う。

筆を使う人は、
世の中は柔らかいものを中心に世界ができていて、
それとの相互作用が世界だと思うようになる。
ナイフの人は、世界の中心で本質は、荒いものだと。

見るところが変わると、世界の見え方が変わる。
世界はこういう風にできていて、
こういう風に動いているという見方が。

世界の見え方、理解の仕方は、
思考に影響を与える。
こう考えればいい、こう思う、は、
世界に立脚しているからだ。


筆とナイフという、小さな手の内のものは、
いつか脳の中のあり方を変えるわけだ。


似たようなことは、土地にも言える。
渋谷で10年住むのと、六本木で10年住むのと、
巣鴨に10年住むのと、足立区に10年住むのとでは、
世界の捉え方は変わってくると思う。

毎日通う駅までの道を、
華やかだが面白味のない表通りを歩くのと、
怪しげだが魅力に満ちた危険な裏通りを歩くのでは、
世界の捉え方や距離感が変わってくると思う。
一年も続ければ、態度や顔つきや行動様式にまで変化があると思う。


配列も、同じだ。

それは毎日触るもので、
何年も触るものだからだ。

一日に2000字程度しか書かない人は、
あんまり影響がないかも知れない。

しかし僕のタイプカウンターによれば、
僕はqwertyローマ字換算で、一日24000タイプしているらしい。
(タイプカウンターは「PCを開いた日」のみをカウント対象にするっぽい。
まるで開かない日は平均に換算されない。
なので、PCを開く日は24000タイプ、ということは言える)

これが、思考やものの見方に影響を与えないわけがない。



僕が打てる配列は、
qwertyローマ字、カタナ式、薙刀式、フリックなので、
この4つで批評したい。


qwertyローマ字は、
口やかましいわりに手が動かない人になる。
論理の飛躍が多く(頭の中では考えているが外に出てないので)、
丁寧な議論ができない。
だからぶっきらぼうな文章になりがちで、
必要最小限のことしか書かなくなる。
(しかも論理が飛躍する)
コミュニケーションとしては、不全方向だ。

丁寧にきちんと書くとものすごく疲れるので、
一日あたりの生産量は少ない。
何日もかかるものだと、途中で思考が別のところを考え出して、
論旨が折れ曲がることが多い。

打鍵数の多さ、運指の手際の悪さがまともに出ると思う。


カタナ式は、それらの欠点を補うので、
口が丁寧になり、論旨も繋がる。
やっと文章を書けるぞ、と思ったものだ。
たぶん僕は人より思考の回転が速く、
手がついてこれてなかったのだ。

しかし生産量はそれほど上向かない
(打鍵数で疲れるし、脳内発声が邪魔になってきた)ので、
後者の欠点は継承した。
(だから薙刀式をつくった)

薙刀式は、
脳内が静かになり、思考と文章が一致する。
ただし手癖の方がいまや速くなっていて、
饒舌で冗長になりがち。
あとで削ることがちょいちょいあるくらい。
でも蒸発するよりよほどマシ。

以前にもあげたが、
僕は思考を、沢山ある概念を繋げることだと想像していて、
薙刀式はその繋ぎの言葉が得意だ。

なので繋げすぎてスパゲッティになることや、
間違ったつなぎをうっかりしてしまうことも多々ある。

qwertyローマ字の、繋げることさえ出来ないのに比べれば、
遥かにましだけど。


フリックは薙刀式ほどではないが、
思考を表しやすい。
人差し指一本だからで、手書きに近いからかな。
(両手打ちは出来ないことはないが、
人差し指一本の方が書きやすい)

ただし連文節変換が出来ないので、
単文節変換と予測変換に頼らざるを得ず、
文の射程が短くなる。

断続的な思考になりがちで、
深いところに手が届かない感じ。



道具は言葉に、言葉は思考に、
思考は人生に影響を与える。
(マザーテレサの名言っぽいね)

僕はqwertyローマ字では、
自分の人生を送れないと感じたので、
何年かかけてここまできた。
親指シフトこそ自分の人生であると思う人もいるだろう。

デファクトの入力法しか知らない人は、
はやくこういう世界があることを知って欲しい。


qwertyローマ字は、すべての日本人を幸せにしないと思う。
薙刀式もだ。
合う人を幸せにするだけだ。

筆とナイフのどちらの絵がいいか、という問いはナンセンスだ。
絵は自由である。
同様に、思考や人生は自由である。

合わないqwertyローマ字に縛られた、下らない思考や人生を、
みんなはやく解き放てばいいのに。
posted by おおおかとしひこ at 13:30| Comment(0) | カタナ式 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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