人間一人が出来る範囲について、まず考える。
生の舞台やパフォーマンスを想像しよう。
そのもっとも大きな範囲はどういうものか。
ジャンプしたり、転がったりするものだろう。
人一人が示せる範囲というものがある。
演劇の舞台になるとどうだろう。
宙づりにしてピーターパンのように動けば、
舞台全体にスケールを広げることが可能だ。
沢山の人で群舞をすれば、
また舞台全体のスケールを使えるだろう。
サーカスならば、空中ブランコが最大だろうか。
宝塚の大階段は、横一杯だけでなく、
縦にもスケールを使っているパターンだ。
あるいは、紙吹雪やスモークが効果的なのは、
舞台全体のスケールだからだ。
フルフレームを使っているわけだね。
スケールの大きなものは、
それだけで面白い。
映画はどうだろう。
舞台より大きな舞台を組むことが出来る。
「イントレランス」「ベンハー」などの昔日の映画では、
舞台より大きなセットを組み、
すごい引き画をつくることが、
スケール感の売りだった。
あるいは「アラビアのロレンス」では、
砂漠の途方もない巨大さだけで売りになった。
人間一人がジャンプしたり転がって表現するよりも、
ずっとずっと大きなものが表現できると思われた。
CGや合成の発達によって、
それはあまり効果がなくなってきた。
広い絵をつくっても、ありがたみがなくなってきている。
しかし、巨大な爆発とか、
巨大な乗り物とか、
ほんとうにある巨大さには、
ある種の畏敬があり、神々しさがある。
(ゴジラが合成やCGになって、神々しさは消えたと僕は思う)
移動もスケールを出せる。
人間のパフォーマンスでもっとも距離が出るのは、
走ることだ。
だからマラソンや走れメロスは、
スケールが大きく見える。
クライマックスで一番芝居が強くなるのは、
走るという動作だったりすることが多い。
(「タッチ」という名作アニメの糞実写版がある。
そこでもっとも力強く泣けるシーンは、
クライマックス手前、
南が決勝戦の会場に向かってただ走るシーンに、
アニメの主題歌がかかるところだ。
これだけで泣ける出来で、あとは別の意味で泣ける糞の出来だ)
レースもそうだ。空撮もそうだ。
旅や引っ越しもそうだろう。
路上のパフォーマンスに比べて、
演劇の舞台に比べて、
映画はスケールを表現する手段を沢山持っている。
使わない手はない。
もっとも、それが何を意味しているのか、
というストーリーの連関が重要である。
ポセイドンアドベンチャーは沈みつつある豪華客船からの脱出劇だが、
さかさまになった豪華客船という舞台装置が面白く、
危機の象徴として興味深い迷路となっている。
密室脱出劇として、これほど面白い映画はそうそうない。
(なおリメイクは無視)
スポーツ大会の決勝がそれだけでドラマチックなのも、
会場が大きく、たくさん人が来る、スケール感があるからだ。
(四畳半の無観客試合だったら意味がない)
そして、それとストーリーとの関係、
つまり、「ストーリーでもっとも重要なことが、ここで決まる」ことが分っているから、
そのスケールはストーリーの面白さになるのである。
つまり、スケールの大きな舞台装置や、
スケールの大きな行動をすることと、
ストーリーは密接な関係がある。
それをうまく組み合わせれば、
面白いストーリーになるはずだ。
ちなみに先日書いた話は、
宇宙飛行士の話で、国際宇宙ステーションが舞台だった。
そこで忘れられない彼女へのプロポーズの指輪を、
海に落とすことで、
流れ星になる、
という大きなスケールの話にした。
小道具である指輪は小さいが、
彼女をあきらめるという人生での大きな出来事を象徴していて、
しかも宇宙ステーションから捨てて流れ星にする、
というスケールと相まって、
なかなかの舞台装置となったと思う。
スケールを利用せよ。
仮に半径2メートルの内容を描いていたとしても、
人間一人がジャンプしたり転がる半径2メートルのモチーフではなく、
半径十メートル、半径数キロ、
半径数光年のものにせよ。
「500 hundred miles 君に遠すぎて会えない辛さ」
なんてだけで歌になったりする。
(アルフィーの「星空のディスタンス」)
あるいは、
宇宙滅亡のような大スケールのものを、
たかが指パッチンに集約した、
アベンジャーズエンドゲームの例もある。
こうしてスケールを操るだけで、
ガワはいくらでも変わる。
その、ガワとモチーフとのマリアージュを探るのだ。
2020年06月09日
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