この感覚は難しい。世界観とも少し違う。
私たちは生まれて死ぬ。
子孫を残したり文化を残したりする。
地球は動いている。
太陽は降り注ぎ、動植物や菌は生きている。
宇宙は膨張し、ビッグバンは起こった。
電磁法則や重力の法則や科学があり、
神はいたりいなかったりするし、
人間同士にあることは、ずっと人を悩ませているし、
信賞必罰やほどこしたものが返ってきたり、
永遠に無視されることもある。
シンクロニシティや運命を感じることもあれば、
全ては無関係に物理法則で支配されているに過ぎないと感じることもある。
こうした、
「この世はこうできている」という感覚は、
人生観とか、哲学とかより、
もう少し大きな概念だと思う。
創作物は箱庭だ。
この世界がこのようにできていることの、
相似形に縮小したものだ。
作者が、世界はこのようにできていると思うことと、
創作の中の世界はだいたい似ている。
人を信じない人のつくるものは、
人を信じていない世界で動くだろう。
科学に明るくない人がつくるものは、
科学が使えるものだという前提で動いていないだろう。
作者は作品世界の神だという。
それは、世界をこのようにとらえている人が、
世界をこのようにするのである。
世界は陽キャで満ちるべきだという人もいれば、
陰キャこそが人間の本質だと考える人もいれば、
それと関係ないことが重要だと思う人もいる。
あるいは、こうあるべきという理想世界をつくる人は、
今の世界よりもこうあるべき世界が、
ほんとうの世界のように見えている。
それは、どういうものでもいいと僕は思う。
問題は、それに素直になっているかだと思う。
自分の感覚に嘘をついたり、気づいていないことがあってはいけないと思う。
それは、あなたの世界への裏切りである。
もちろん、
「この作品世界ではこのような世界を描いていて、
あの作品世界では別の世界を描いている」
と、使い分けてもいい。自覚的であればね。
短編ならば、使い分けることが簡単だから、
どんどん違う「世界とはこういうことだ」を変えて描くことが可能だ。
僕が短編の数稽古を奨励しているのも、
そのように世界を切り分ける経験を沢山積むことで、
世界をどうみればいいか、
という目を育てるためである。
最終的には、「作家の目」などという言葉に集約されるかもしれないが、
あなたが世界をどう見ているか、
ということは、
作品の中の世界がどのようなものになっているか、
ということと関係している。
メアリースーに気づかない作者は未熟だと思うが、
それは世界の見方が未熟だからだ。
ある物語のために、特殊な設定の世界観をつくることがある。
それはモチーフだ。
それを使って「世界はこのようにできている」ということが、それの示す意味である。
たとえば「天気の子」の洪水の世界は、
ひとつのモチーフだ。
僕は、ここから、
「陰鬱な気持ちで沈んでいる世界は、美しいものだ」
という自己弁護的な「世界はこのようにできている」を読み取った。
それが「考えが足りていない」と思う要因だ。
ファンタジーやフィクションとはそのように読むべきだと思う。
無論、あなたの中の無意識に気づいていない、
「世界はこういう風にできている」が、
作品に投影されることがある。
やってみて(指摘されて)初めて気づいたりする。
それは気づかない無意識だ。
怖いものだ。怖いということをわかっていればよい。
2020年06月14日
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