嵐のモーテルに偶然集まった人たち。
そこで起きる惨殺事件。
犯人は誰か。
こんなんわかる訳ないやんけ。
素晴らしい反則クラスの大どんでん。
これ以上情報を入れるな。
そのまま見ろ。
以下ネタバレ。
まず立ち上がりのキレがいい。
画面フリーズして時間軸を飛ばして、
ここに集まるまでのそれぞれの紹介を上手に済ませている。
妻が事故で死にそうで、なんとか助けなきゃと、
危機を渡りながら話を展開させるのがうまい。
だいたいキャラがわかったときに、
女優の殺人が起こるのが第一ターニングポイント。
ランドリーの中で回ってる生首はいい絵だ。ここまで約30分。
これはややこしい。
雨、無線が効かない孤立閉所、
死にそうな妻を抱えたままの殺人事件。
ここまでは完璧な密室事件ものかと思わせる。
途中から話にツイストが。
幽霊?
ナンバーのある鍵?
そうだ、冒頭からあった、
夜中に起こされた判事と、殺人犯の話がカットバックされている。
もうすぐ到着する囚人と、
モーテルの囚人は別人。
それがわかったころ、
新婚の旦那も囚人も殺され、新婦も車で爆発し、
事故の妻も死に、旦那も車で轢かれ、
なぜかすべての死体が消える。
どういうことだ、共通点は5月10日の誕生日、
なぜか姓が州の名前…?
ここが第二ターニングポイントだろう。
(70分/90分)
その瞬間、
真夜中に判事のところに連れてこられた囚人の、
いままでのことは妄想劇だったことが判明するという、
ものすごいどんでん返し。
ああ、だからタイトルが「アイデンティティー」。
多重人格の統合過程が、
モーテルの連続殺人として描かれていたのだ。
すごい発想だ。
こんなん絶対わからんわ。
いままで刑事だったと思った男が、
囚人二人の片割れだったとわかるどんでんも良い。
殺人犯を殺せば人格統合、
というクライマックスからの統合成功、
オレンジ畑へ、
と思わせておいての、
子供生きとったんかいワレ、真犯人かワレ、のラストどんでん。
素晴らしい。
何一つ予想できなかった。
ハッピーエンドでなく、
バッドエンドにしてはかなり面白かった。
バッドエンドの目的は、
「世の中は簡単に幸せになれない」
と冷水を浴びせることである。
十分な冷や水だった。
この仕掛けを作るのに、
ものすごく作り込んだことが窺える。
趣味の悪い、よくできたトリックのバッドエンドとして、
歴史に名を残すだろう。
ただネタバレできないのが惜しいよね。
どんでん返しものは、
SNS時代に広めづらい。
これは興行論として、どこかでまた考えたい。
アイデンティティでいうと、モーテルで起こっていることは、多重人格者である主人公の脳内世界の出来事です。
ある人物の脳内で起きていることは、ふつうは他人には観察することができず、カメラに取ることもできません。その人の主観的な出来事です。
しかし、この作品では、ある人物の脳内で起きていることを、あたかも客観的な出来事であるかのように映像として撮り、観客に見せている。
だからこそ、「今までのことは、実は多重人格者の脳内で起こっていたことだったのだ!」というどんでん返しが成り立つ。
私としては、どんでん返しの驚きよりも、「客観映像だと思っていたものが、主観を客観的に撮った映像だったなんてありなの?」という呆れや憤りのほうが大きいです。
ある人物の主観を客観な映像として撮っている作品は他に
ユージュアルサスペクツ、ファイトクラブ、シャッターアイランド、シークレットウインドウ、ビューティフルマインドなどがあります。
未見ですがジョーカーもそうなのでしょうか。
いつもの大岡さんならこういう作品は「一人称と三人称が混ざっている」「主観と客観を区別できていない」と批判すると思うのですが、
アイデンティティのような、ある人物の主観を客観的に撮っている映像は、大岡さん的にはありなのでしょうか?どう思われます?
(分かりづらい長文で申し訳ありません)
叙述トリックで調べてみてください。
小説の世界で簡単な叙述トリックは、
映像の世界ではなかなかに難しいです。
だからこそ、それをきちんとやり遂げた作品は、
うまく騙されたと思うわけです。
とくに数学的な、パズル的に出来の良い叙述トリックは、
それだけで商品になると思います。
ただ、「騙されたー!」と喜んだ先に、
テーマがあるかないかで決まりますね。
叙述トリックはあくまでガワなので。
「シャッターアイランド」はテーマが微妙で、
(相棒のどんでんは面白かったが)
「アイデンティティー」は、
精神障害者への安易な優しさみたいなことに唾を吐いているところが、
なかなかに面白かったです。
前者は湿っぽいヒロイズム、後者はニヒリズムですが、
後者の方がドライで突き放してたので。
パズルはドライがいいと思いました。
その虚偽の記述のせいで、視聴者としては提示されている情報で謎を解くことができない。
ミステリや叙述トリックにおけるフェアプレイをしていないではないか、と思うわけです。
”ミステリ的にフェアかアンフェアかなんてどうでもよくて、全体でどういう意味を語っているかの方が大事”という立場にたつなら気にならないのかもしれませんが、私は「なんだか釈然としないな……気持ちのいい騙され方ではないな……」と思ってしまいます。
僕はその虚偽が面白いと思ったので、個人差かもしれません。
人が狂うというのは、
絶対正しいことがないことなので、
客観的映像すら信用できませんよ、
客観的映像に見せかけて主観的映像でした、
というのが昨今の「実は狂ってる系」の前提だと思います。
メインは「ヒントを出しますので謎を解いてください」ではなく、
「絶対わからないことをこれからします」なので。
しかし伏線は0ではない。
雨が降り続ける異常な閉鎖空間とか、共通点があるとか、
夜中に起こされ裁判所に向かう判事とか、
オープニングで資料を調べる弁護士とか。
少しちがいますが、
シャマランの「ヴィレッジ」はそれを逆手に取った面白さがありました。
狂った恐ろしい村かと思いきや、すべて人力で作られたのだ、
と「認識の視点を変える面白さ」だとおもいます。
客観映像を見せておいて、実はそれは主人公の主観が混じった客観映像だったのだ!は、なしだと思うんです。
うまくいえませんが……(IQが違いすぎるので勘弁してください)
あと、コメントを書いていて「私は叙述トリックが嫌いなんだな……」と思いました。
理由は、騙されたと分かった時に映像の製作者の顔が頭に浮かぶからです。製作者のドヤ顔が浮かぶのが不快でなりません。
先に挙げた作品群を見ていたときも、スティングを見ていたときも、製作者のドヤ顔が浮かんでとても不愉快でした。
通常のミスリードやどんでん返しものでは感じたことのない、製作者の存在を強く感じる嫌な感じ。
叙述トリックは作者が読者に仕掛ける罠なので、そう感じるのかもしれません。
なるほどなあ。
ミステリーとか謎解き系は、僕はいつも作者との勝負だと思ってみてますがねえ。
物語は常に作者がいるもので、
発見された科学法則ではないと思っているので。
「よく出来たプラモデルだなあ」と感想は同じですね。
ざっくりいうと、好みの問題かと思います。
僕は演劇がおわったときに、
作演出の人が最後に出てきて挨拶するのがとても好きですね。
良かったらブラボーと大声で言うし。